高句麗
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そして、高句麗王権による夫余との同族性についての宣言は、高句麗の政治戦略の一環として唱えられたものである可能性が高いと見られており、その神話の形成過程については古くから議論されている[185][注釈 17]。李成市は、高句麗による夫余との同族性の強調は政治性が遺憾なく発揮されたものであり、高句麗の東夫余征服の正当性確保や高句麗王権と夫余系貴族との一体感の醸成や、東夷の中でも随一の歴史の古さを誇る名族としての夫余のステータスを必要としたことなど、現実の政治情勢における必要性と強く連動して行われたものであるとする[194]。そして、高句麗と夫余の建国神話は、外形的には似通っているが、神話の類型としては重要な差異があり、両者が単純に同一の神話を持つという前提に立つ事はできないと言う[195]

ただし、その同族性の問題は置くとしても高句麗の歴史に夫余が大きな影響を与えていることは疑いえない事実である。既述の通り、夫余は東夷の中でも古くから栄えた有力な勢力であったが、285年には鮮卑の首長慕容?の攻撃を受けて一時滅亡した[196]。その後西晋の支援を受けて四平周辺で復興(東夫余)したが、346年にも慕容?(前燕)による攻撃を受けて五万余口が慕容氏の根拠地であった遼西地方に強制移住させられるなどした[196][191]。その後の夫余の歴史は不明点が多いが、時代が進むと共に彼らは高句麗に依存・隷属するようになっていき、最終的に494年に勿吉に追われた夫余王が国をあげて高句麗に降ることでその歴史を終えた[191]。この過程で長期に渡り夫余族が高句麗やその周辺に流入し、高句麗の臣下として仕えるようになった[191]。その実例として広開土王に仕えた中堅貴族牟頭婁の墓が見つかっており、4世紀頃から北夫余出身の彼の祖先が高句麗王権に奉仕し、慕容氏との戦いで活躍したことが墓誌に残されている[197][198]。この流入した夫余の人々こそが、4世紀代の高句麗発展の中心的な担い手であったとする見解もあり[199]、また古くからの五部(五族)からの卓越した地位を求めた高句麗王権がその超越性と正統性を新たに流入した外部の夫余族に求めた可能性もある[199]。いずれにせよ、高句麗と夫余の同族説や類似した建国神話の構築は、夫余族の高句麗国家への参与があってこそ可能であったと見られる[199]
中国

高句麗や夫余(扶余)を含む東夷諸族の政治的集合には漢が設置した楽浪郡玄菟郡による郡県支配が大きな影響を与えていた[200]。『三国志』は高句麗が漢代に玄菟郡に属していたと記録しており、そこでは高句麗県令が管理していた名籍(名簿)に従って「朝服衣?」(衣冠)の授受が行われていた[200]。このような儀式は漢による「支配」であると同時に、高句麗にとっては王権を荘厳するための装置でもあり、漢から正式に承認されることで、漢の郡との通交を管理・独占し、統治機構の組織化を図る行動でもあった[201]。高句麗や夫余は漢の郡県支配に対して反抗と帰順を繰り返しつつ国家形成を進めた[201]。当時、先行する夫余や後発の朝鮮半島の馬韓弁韓辰韓等の韓族もそれぞれ漢の郡県からの圧倒的な影響力のもと、これと多様な関係を結びつつそれぞれの政治的集合を始めており、高句麗の国家形成もこれと同じく当時の東夷諸族の間の大きな潮流の中の出来事であった[202]

4世紀、中国が五胡十六国時代に入ると、中華王朝の郡県は消失し、夫余・高句麗に続いて百済新羅倭国なども本格的な政治体制を形成し始めた。一方で、華北の争乱は東夷諸国、とりわけ隣接する夫余・高句麗も巻き込んでのものとなり、遼西に興起した鮮卑慕容氏が建てた前燕後燕と高句麗の間で、前代までの中華の統一王朝との抗争をも凌駕する規模で激しい争いが生じた[185]。軍事面において慕容氏の脅威は大きく、高句麗はその攻撃を受けて首都丸都城を落とされ臣礼を取らねばならなかった[33][34]。一方で、この時代中国の戦乱から逃れてきた漢人たちが高句麗の領内に流入し、その発展に大きな役割を果たすようになる[199]。五胡十六国時代の間に戦乱や政争に敗れた華北の王朝からたびたび有力者が亡命したことが各種の記録に残されている[199]。こうした漢人たちのうち、既に述べた冬寿のように旧高句麗領内で墓が見つかっている例もある[199]。彼は『資治通鑑』にある慕容?の攻撃から逃れて前燕から336年に高句麗へ亡命した?壽に対応すると見られ[146]、彼の墓である安岳3号墳は同時代の朝鮮半島では墓室面積において最大の墳墓であり、高句麗王陵を凌ぐ規模を誇る[203][146]。この事実は4世紀半ばにおいても高句麗支配下にある朝鮮半島北部において楽浪郡以来の中国系の人々が相当程度自律的な勢力を保っていたことを示すものと見なされている[203]

こうした中国系の人々と高句麗の関係は、次第に強化される高句麗王権によって徐々に変化し、5世紀初頭に属するやはり亡命漢人の某鎮の墓からはその進展が見て取れる[203]。冬寿の墓ではもはや実質を失っていた東晋の年号と生前の官位が記されているのに対し、某鎮の墓には高句麗の年号が用いられるとともに高句麗の官位が銘記されており、高句麗王権の政治体系に服する姿勢が明瞭に表れている[203][注釈 18]

この流入漢人たちが具体的にどのように高句麗国家の建設に関与したのかを読み取れるような史料はほとんど存在しない[204]。しかし、『三国史記』「百済本記」には以下のような記述がある。

自馮氏數終,餘燼奔竄,醜類漸盛,遂見凌逼,構怨連禍,三十餘載,財殫力竭,轉自孱?,若天慈曲矜,遠及無外,速遣一將,來救臣國
馮氏の命数がつき、その残党が高句麗に逃げ込んでいらい、醜類(高句麗)はようやく隆盛になり、ついに(我が百済を)侵略するようになりました。(このように)怨みを重ね禍いを連ねること三十余年になり、(百済は)財力も戦力も使いはたし、しだいに弱り苦しんでいます。もし天子が弱くあわれな者に慈悲深く、(その慈愛が)はてしなく遠くまで及ぶのでしたら、速やかに一人の将軍を派遣して、臣の国を救ってください。
?『三国史記』百済本紀/蓋鹵王18年 井上秀雄訳[206]

李成市はこの記述において馮氏(北燕)の滅亡後に高句麗に逃れた残党が高句麗の強大化に大きな役割を果たしたことがあることから、「華北の争乱を背景に東奔した人士が、高句麗の地において果たした役割が決して小さいものでなかったことを、ここからいささかなりとも読み取ることができるのではないかと思う」(李成市)と述べる[204]。また、実際に中国史書には5世紀以降、外交・軍事に中国姓の者の活躍がみられ、高句麗は中国系人士を外交交渉や軍事活動に登用していたと推測もできる[204]

5世紀の長寿王代には西方国境の安定が模索された[207]。この方針の下、華北を統一した北魏への朝貢や東晋を始めとした南朝への入朝を通じてそれぞれとの関係が安定したことで、朝鮮半島への拡大策に大きく舵を切る事が可能となり、475年には百済の首都漢城を落城させて朝鮮半島の中央部以北をその支配下に収めるに至った[208]。ここに至る一連の戦争において、百済は南朝やそれまで通交を持ったことが無かった北魏へ救援要請を行っているが、北魏は高句麗の忠節(高麗の藩を称する)を挙げてこれを拒否した[208]。南朝もまた同様の論理でこれを拒否したとも考えられ、この経過は高句麗の外交的勝利でもあった[208]。この南北両朝との通交と西方国境での安定策は、基本的には7世紀まで200年にわたって高句麗の基本的な対中外交方針となった[207]

6世紀後半にが中国を統一すると、このような外交的条件は根本的に変化した[65]。隋と国境を接する高句麗は、海上で隋と接する百済に続き590年には隋への遣使を行った[67][65]。以降、東アジアでは隋を中心とした一元的な国際秩序が形成されていく[64][67]。しかしこれは南北両朝の存在を前提に北朝の脅威に対応してきた高句麗にとっては深刻な事態であった[67]。この変化は実際には高句麗と対立する靺鞨粟末靺鞨)や高句麗の領内に居住する契丹人が隋と結びついて高句麗王権から離反する動きとして現れ[64]、これらを鎮圧しようとする高句麗の行動と関連して隋による高句麗遠征が行われ[64][67][69]、最初の遠征が失敗した後も、高句麗と突厥の結びつきに脅威を覚えた隋の煬帝は遠征を繰り返した[70][64][71][69]


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