高句麗
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この封土墳の中にはいわゆる高句麗の壁画墳が含まれており、集安地域では1995年時点で21基が発見されている[141][注釈 14]。この地域では427年の平壌遷都以降も大型の封土墳が造営されていることから、有力な勢力がこの地に残存していたと推定される[139]。封土墳の中には出土遺物や墓誌によって絶対年代を想定可能なものが存在する[142]吉林省集安市の洞溝古墳群にある山城下332号墳は、出土した帯金具が広東省広州大刀山の東晋太寧2年墓(324年)の帯先金具との類似によって、4世紀半ばから後半に位置付けられている。同じく集安の牟頭婁墓は、その前室に墨書された墓誌によって「国岡上広開土地好太聖王」の「奴客たる牟頭婁」の墓であることが銘記されており、また広開土王の死亡に言及していることからこの墓の造営は王の死亡した412年以後、5世紀半ば頃のものであることがわかる[143][144]。牟頭婁は北扶余出身の有力者で、この墳墓には高句麗の建国神話や、彼の祖先の情報と、広開土王にどのように仕えたかが記録されており、高句麗王権の性質や神話、その支配下にある北扶余との関係などについて貴重な情報を提供している[145]。また、同じく墨書墓誌によって墓主が判明している墳墓として北朝鮮の黄海南道安岳郡五局里にある安岳3号墳があり、357年(永和13年、「永」字は推定)に69歳で死亡した冬寿(?壽)という人物の墓であるとされる[146]。この墳墓は2000年現在、高句麗の壁画古墳としては最古のものと位置付けられ、この墓の存在によって4世紀半ばには確実に高句麗に横穴式石室が伝搬していることが証明されている[146][147]。また、平壌の南西20キロメートルの南浦市には、409年(永楽18年)に没した「幽州刺史」の鎮という人物の墓がある(徳興里古墳)。墓誌には彼が仏門にいたことが銘記されており、高句麗における仏教の広がりを証明する墓となっている[148]

427年の平壌遷都後、王族の墓も巨大積石塚から石室封土墳へ移行し、壁画が導入され始めた[149]。封土墳と石室は高句麗領内においてもその構造に地域差が見られるが、東潮は平壌地方の封土墳の石室について5つの特徴をあげ、特に平行・三角持ち送り式天井を持つ単室墓を平壌型石室と定義し、左の特徴に加えて片袖式の石室があるものを平壌型亜式と分類している[150]。平壌式石室の造営は大同江清川江(薩水)流域の限定された地域に集中するが、特に大同江流域を中心とする[151]。この中でも現在の平壌市三石区域湖南里の湖南里古墳群、平壌市三石区域魯山洞の内里古墳群、平壌市三石区域長寿院洞の土浦里古墳群は、平壌城時代の王族・官人層の埋葬地であったと推定されている[152]。5世紀末以降には高句麗の支配層の墓制が画一化していく。これは国制の整備に伴い、官位に応じて石室規模が規制されたためと考えられる[152]

平壌式石室の中でも壁画が描かれたものは上流階級の墓であったであろうと推定されるが[152]、壁画が描かれた墳墓の分布も同様に地域的な偏りが見られ、大同江中流域から下流域、鴨緑江流域の集安、載寧江の流域に集中しており、高句麗の領土の中でもその造営が行われた地域は極めて狭い範囲に限られる[151]。このような平壌型石室および壁画の地域的な偏りは高句麗の社会構造を反映したものと見られる[153]
仏教金銅延嘉七年銘如來立像。大韓民国韓国国立中央博物館ソウル)所蔵。延嘉七年は539年の可能性がある。高句麗と北朝の千仏信仰の関係を示す遺物としても注目される[154]

三国遺事』『三国史記』によると、372年(前秦・建元7)、前秦苻堅が高句麗に浮屠(僧)の順道を派遣し、仏像や経文を送ったことが高句麗の仏教の始まりである[155]。これ以前に高句麗に仏教が存在しなかったと断言はできないが、372年を一応の画期とみなすことができる[156]。また、374年には僧侶阿道(阿度)がやってきたという[155]。順道、阿道については、それぞれに魏や東晋から来たという異伝も伝わる[157]。魏から来たという伝承については年代的不整合のために史実性は乏しいが、彼らの高句麗入りについて複数の伝承が存在していたことを把握できる[157]

仏教公伝以前の高句麗仏教の存在を示唆するかもしれない記録として、慧皎の『梁高僧伝』巻4・竺潜に東晋の僧侶支遁(314年-366年)が僧の竺潜について「高麗道人」に書き送ったという記録が残されている[157]。この「高麗道人」は高句麗人僧侶であるかもしれないが、どのような人物であるのかは不明である[157]。しかし、仏教公伝前に高句麗人の間に仏門に入ったものが存在した可能性を示す[157]
寺院

1995年時点において、仏教公伝当時の高句麗の首都集安では仏教寺院跡は確認されておらず[156]小獣林王によって建立されたと伝わる肖門寺(省門寺)・伊弗蘭寺もその位置すら不明である[158]。一方で平壌では高句麗時代の寺院跡が複数確認されており、その他の地方にもいくつかの寺院跡が認められている[156]

高句麗の仏寺の特徴は、恐らく仏塔と見られる八角形の建物跡があることや、それを金堂と見られる建物が三方で取り囲む伽藍配置である(一塔三金堂式[156][159])。しかし、百済新羅の仏寺と比べ高句麗の寺院跡の確認例は少なく、その詳細については多くの事が不明である[156]。これは元々少なかったというよりは調査が不十分であることに起因すると見られる[156]

まず位置不明の肖門寺(省門寺)・伊弗蘭寺については、王権による建立という経緯を考えるならば、当時の首都集安に創建されたと見るのが自然であるが、『海東高僧伝』(1215年)引用の「古記」には肖門寺は後の興国寺、伊弗蘭寺は後の興福寺であると伝わる[157]。このうち興国寺と言う名前の寺院は後の高麗(王氏)の首都松宮(現:開城)にもあったことが確認されており、これを理由に『三国遺事』は『海東高僧伝』の記録を誤りであるとしている[157]。しかし、『勝覧』「平壌府・古跡」にも両寺院名が記載されており、同名の寺院が高麗(王氏)時代の平壌に存在したことは『高麗史』の記述によって確認されている[157]。このため、集安に首都を置いていた時代であるにもかかわらず、高句麗最初の公的な仏教寺院は最初から平壌に建立された可能性もある[160]。実際に広開土王時代には平壌に9寺を創建したという記録があり[161]、集安時代に意識的に平壌が仏教の中心地として整備されていたかもしれない[160]。もしそうであるならば、平壌周辺が当時中国から流入した人々の居住地とされていたことと無関係ではないであろう[162]。先述の仏門にいた「幽州刺史」某鎮の墓はまさにこの時代に建造されたものである[162][148]。其所居必依山谷,皆以茅草葺舍,唯佛寺,神廟及王宮,官府乃用瓦。
(高句麗人の)居所は必ず山や谷にあり、みな茅草で舎屋を葺く。ただ仏寺・神廟および王宮・官府だけは瓦を用いている。?『旧唐書』高麗伝 井上秀雄 他、訳[163]

考古学的調査によって実像が明らかとなっている高句麗の寺院にはまず平壌の清岩里廃寺がある[164]。この遺跡は平壌の王城跡とみられる清岩里土城内に位置しており、かつては王宮跡と考えられていたが、1938年の小泉顕夫(平壌博物館)の調査で寺院跡であることが判明したものである[165]。中心部には八角形の建物跡(恐らく仏塔)があった。


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