高句麗
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この墓の東北200メートルの位置に広開土王碑が立つことから広開土王の墓とする説もある[132][注釈 12]集安市付近には他にも大型の積石塚の代表例とされる将軍塚がある[134]。将軍塚の方形基壇の底面は一片が31.58メートル、高さは12.5メートルに達し、以降石室が巨石化・定型化する[134]。将軍塚の規模は先行する太王陵よりは縮小しているが、技術的な完成度は将軍塚の方が高く、そのためにこちらの方を広開土王の墓とする説もある[135][注釈 13]。この時期には横穴式石室も導入されるが、これは中国の墓制の影響を受けたものと考えられる[137]

高句麗の積石塚は鴨緑江の中流域の両岸地帯に集中して分布する。そして、大型の物は集安桓仁渭原江界平壌のような拠点に建造されたが、とりわけ最大級の積石塚は集安に集中している[135]
封土墳角抵塚の壁画。中華人民共和国吉林省集安

高句麗の後期には墓制は封土墳(石室墳)に移行した。石を積み上げて構築する積石塚に対し、封土墳は横穴式石室に土を被せて構築される墳墓で、平面プランは方形または円形となる場合が多い[138]。基底部に列石を巡らせる場合には方形となる[138]。東潮は石室の形状と構成に基づき、封土墳を5類型に分類している[139][140]。それによれば各類型は以下のような構成となる。
玄室と羨道からなる単室墓。羨道には小規模な(がん、壁に設けられた窪み)が取り付けられる[139]

玄室と羨道からなる。1類型で見られた龕が発達・大型化して側室に変化し、その天井が羨道よりも高くなったもの[139]

玄室と前室と羨道からなる。前室は羨道の左右に発達した側室が一体化し、一つの部屋となったもの[139]

玄室と前室と羨道からなる。前室がさらに発達し、玄室に匹敵する規模となったもの[139]

玄室と前室が分離し、それぞれ単独の石室を形成したもの[139]

上記のうち、1-3類は4,5世紀に、4-5類は5,6世紀に見られる[140]。ただし、時間的には完全に整然と1類から5類への変化が並ぶわけではない[140]。また前述の通り横穴式石室は中国の墓制の影響を受けて成立したと考えられるが、高句麗の石室には楽浪・帯方や遼東地域の多様な石室墓の影響が見られるため、中国から高句麗への横穴式石室導入は1経路ではなく複数の系列で伝わったと考えられている[140]

この封土墳の中にはいわゆる高句麗の壁画墳が含まれており、集安地域では1995年時点で21基が発見されている[141][注釈 14]。この地域では427年の平壌遷都以降も大型の封土墳が造営されていることから、有力な勢力がこの地に残存していたと推定される[139]。封土墳の中には出土遺物や墓誌によって絶対年代を想定可能なものが存在する[142]吉林省集安市の洞溝古墳群にある山城下332号墳は、出土した帯金具が広東省広州大刀山の東晋太寧2年墓(324年)の帯先金具との類似によって、4世紀半ばから後半に位置付けられている。同じく集安の牟頭婁墓は、その前室に墨書された墓誌によって「国岡上広開土地好太聖王」の「奴客たる牟頭婁」の墓であることが銘記されており、また広開土王の死亡に言及していることからこの墓の造営は王の死亡した412年以後、5世紀半ば頃のものであることがわかる[143][144]。牟頭婁は北扶余出身の有力者で、この墳墓には高句麗の建国神話や、彼の祖先の情報と、広開土王にどのように仕えたかが記録されており、高句麗王権の性質や神話、その支配下にある北扶余との関係などについて貴重な情報を提供している[145]。また、同じく墨書墓誌によって墓主が判明している墳墓として北朝鮮の黄海南道安岳郡五局里にある安岳3号墳があり、357年(永和13年、「永」字は推定)に69歳で死亡した冬寿(?壽)という人物の墓であるとされる[146]。この墳墓は2000年現在、高句麗の壁画古墳としては最古のものと位置付けられ、この墓の存在によって4世紀半ばには確実に高句麗に横穴式石室が伝搬していることが証明されている[146][147]。また、平壌の南西20キロメートルの南浦市には、409年(永楽18年)に没した「幽州刺史」の鎮という人物の墓がある(徳興里古墳)。墓誌には彼が仏門にいたことが銘記されており、高句麗における仏教の広がりを証明する墓となっている[148]

427年の平壌遷都後、王族の墓も巨大積石塚から石室封土墳へ移行し、壁画が導入され始めた[149]。封土墳と石室は高句麗領内においてもその構造に地域差が見られるが、東潮は平壌地方の封土墳の石室について5つの特徴をあげ、特に平行・三角持ち送り式天井を持つ単室墓を平壌型石室と定義し、左の特徴に加えて片袖式の石室があるものを平壌型亜式と分類している[150]。平壌式石室の造営は大同江清川江(薩水)流域の限定された地域に集中するが、特に大同江流域を中心とする[151]。この中でも現在の平壌市三石区域湖南里の湖南里古墳群、平壌市三石区域魯山洞の内里古墳群、平壌市三石区域長寿院洞の土浦里古墳群は、平壌城時代の王族・官人層の埋葬地であったと推定されている[152]。5世紀末以降には高句麗の支配層の墓制が画一化していく。これは国制の整備に伴い、官位に応じて石室規模が規制されたためと考えられる[152]

平壌式石室の中でも壁画が描かれたものは上流階級の墓であったであろうと推定されるが[152]、壁画が描かれた墳墓の分布も同様に地域的な偏りが見られ、大同江中流域から下流域、鴨緑江流域の集安、載寧江の流域に集中しており、高句麗の領土の中でもその造営が行われた地域は極めて狭い範囲に限られる[151]。このような平壌型石室および壁画の地域的な偏りは高句麗の社会構造を反映したものと見られる[153]
仏教金銅延嘉七年銘如來立像。大韓民国韓国国立中央博物館ソウル)所蔵。延嘉七年は539年の可能性がある。高句麗と北朝の千仏信仰の関係を示す遺物としても注目される[154]

三国遺事』『三国史記』によると、372年(前秦・建元7)、前秦苻堅が高句麗に浮屠(僧)の順道を派遣し、仏像や経文を送ったことが高句麗の仏教の始まりである[155]。これ以前に高句麗に仏教が存在しなかったと断言はできないが、372年を一応の画期とみなすことができる[156]。また、374年には僧侶阿道(阿度)がやってきたという[155]。順道、阿道については、それぞれに魏や東晋から来たという異伝も伝わる[157]。魏から来たという伝承については年代的不整合のために史実性は乏しいが、彼らの高句麗入りについて複数の伝承が存在していたことを把握できる[157]

仏教公伝以前の高句麗仏教の存在を示唆するかもしれない記録として、慧皎の『梁高僧伝』巻4・竺潜に東晋の僧侶支遁(314年-366年)が僧の竺潜について「高麗道人」に書き送ったという記録が残されている[157]。この「高麗道人」は高句麗人僧侶であるかもしれないが、どのような人物であるのかは不明である[157]。しかし、仏教公伝前に高句麗人の間に仏門に入ったものが存在した可能性を示す[157]


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