高句麗
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具体的には、順奴部の順を満洲語のjun(左)・エヴェンキ語のj?n(東)、灌奴部の灌を同じくオルチャ語のχama-si(後ろへ)・満洲のama-si(後ろへ)・ソロン語のamail?(北)、絶奴部の絶をやはり満洲語のjulergi(前方・南方)などと対応するものと考えれば、五部名が方位語としてツングース語で解釈可能であるとする[122][注釈 11]
文化将軍塚。中華人民共和国吉林省集安
墓制

高句麗初期・中期の墓制は積石塚に代表され、後期には土塚、即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として古墳壁画が挙げられる。起源は中国の古墳壁画に求められうるが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。前期古墳では中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳では朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界遺産に登録されている。
積石塚

高句麗の初期・中期の墓制を代表するのが積石塚である。高句麗の積石塚は、川原石や塊石・切り石を積み上げ、中央に埋葬主体を置く形が通常である[10]。積石塚は高句麗の初期から中期にかけて造営され[127]、既に述べた通り、考古学的にはこれの出現をもって高句麗の始まりと見るのが一般的見解となる[10]

おおまかな発展過程としては、埋葬主体を石槨とする無基壇式のものが紀元前3/1世紀頃に登場し、次いで紀元前後に方形の基壇を持つもの、または方形の基壇が階段状に数層重なるものが現れる[128]。3世紀末から4世紀の前半には中国の墓制の影響を受けて横穴式石室が導入され、5世紀前半の平壌への遷都と前後して積石塚の造営は終了する[128]。この高句麗の積石塚は、前4世紀から前3世紀に遼東地方の鴨緑江近辺で見られる青銅器を副葬した積石塚にその源流があると考えられ、更にこれは東北アジアで紀元前1千年紀に発展した積石塚や支石墓に源流を持つかもしれない[129]

考古学者の早乙女雅博のまとめによれば、高句麗の積石塚は様々な学者によって3から5つの類型に分類されている[128]。李殿福は1式から5式までの5種に、田村昇一は1式から3式までの3種に分類し、それぞれをさらにa,b,c類に分類した[128]。朱永憲は、4種に、魏存成が5種に分類している[128]。また東潮は7類型に分類している[130]。概ね、基壇を持たない墳丘の中心部に埋葬主体を儲ける原初的な形態の無基壇式石槨積石塚と、方形の基壇を作りその上に石積みを行う方壇階梯石室墓に大別され、基壇の層数や羨道の有無、石室の天井の様式や床面の高さなどによって更に分類が行われている[128]

最も古い高句麗の無基壇式石槨積石塚は鴨緑江の南側、現在の北朝鮮慈江道にある雲坪里古墳群や深貴里古墳群、下活龍古墳群などで見られる[130]。雲坪里古墳群は鴨緑江の沖積平野の南北2000メートル、東西350メートルの範囲に、およそ200基の古墳が分布しているもので、概ね底辺が10メートル前後(最大20メートル、最小2メートル)、高さ1-2メートル(大型のもので3メートル)内外の積石塚が分布している[131]。雲坪里4-8号墳や4-9号墳は方形化以前の形態を示し、川原石・山石を積み上げて不正形の楕円形の円丘が形成されている[130]

国内城に遷都した3世紀に方壇階梯石室墓が登場する。大型化も進んでおり、最大の物は鴨緑江の中国側にある太王陵で、一片66メートル、高さ14.8メートル(現存部)の正方形の積石塚であり、基壇は7段になりピラミッド状の外観を持つ[132][133]。この墓の東北200メートルの位置に広開土王碑が立つことから広開土王の墓とする説もある[132][注釈 12]集安市付近には他にも大型の積石塚の代表例とされる将軍塚がある[134]。将軍塚の方形基壇の底面は一片が31.58メートル、高さは12.5メートルに達し、以降石室が巨石化・定型化する[134]。将軍塚の規模は先行する太王陵よりは縮小しているが、技術的な完成度は将軍塚の方が高く、そのためにこちらの方を広開土王の墓とする説もある[135][注釈 13]。この時期には横穴式石室も導入されるが、これは中国の墓制の影響を受けたものと考えられる[137]

高句麗の積石塚は鴨緑江の中流域の両岸地帯に集中して分布する。そして、大型の物は集安桓仁渭原江界平壌のような拠点に建造されたが、とりわけ最大級の積石塚は集安に集中している[135]
封土墳角抵塚の壁画。中華人民共和国吉林省集安

高句麗の後期には墓制は封土墳(石室墳)に移行した。石を積み上げて構築する積石塚に対し、封土墳は横穴式石室に土を被せて構築される墳墓で、平面プランは方形または円形となる場合が多い[138]。基底部に列石を巡らせる場合には方形となる[138]。東潮は石室の形状と構成に基づき、封土墳を5類型に分類している[139][140]。それによれば各類型は以下のような構成となる。
玄室と羨道からなる単室墓。羨道には小規模な(がん、壁に設けられた窪み)が取り付けられる[139]

玄室と羨道からなる。1類型で見られた龕が発達・大型化して側室に変化し、その天井が羨道よりも高くなったもの[139]

玄室と前室と羨道からなる。前室は羨道の左右に発達した側室が一体化し、一つの部屋となったもの[139]

玄室と前室と羨道からなる。前室がさらに発達し、玄室に匹敵する規模となったもの[139]

玄室と前室が分離し、それぞれ単独の石室を形成したもの[139]

上記のうち、1-3類は4,5世紀に、4-5類は5,6世紀に見られる[140]。ただし、時間的には完全に整然と1類から5類への変化が並ぶわけではない[140]。また前述の通り横穴式石室は中国の墓制の影響を受けて成立したと考えられるが、高句麗の石室には楽浪・帯方や遼東地域の多様な石室墓の影響が見られるため、中国から高句麗への横穴式石室導入は1経路ではなく複数の系列で伝わったと考えられている[140]

この封土墳の中にはいわゆる高句麗の壁画墳が含まれており、集安地域では1995年時点で21基が発見されている[141][注釈 14]。この地域では427年の平壌遷都以降も大型の封土墳が造営されていることから、有力な勢力がこの地に残存していたと推定される[139]。封土墳の中には出土遺物や墓誌によって絶対年代を想定可能なものが存在する[142]吉林省集安市の洞溝古墳群にある山城下332号墳は、出土した帯金具が広東省広州大刀山の東晋太寧2年墓(324年)の帯先金具との類似によって、4世紀半ばから後半に位置付けられている。同じく集安の牟頭婁墓は、その前室に墨書された墓誌によって「国岡上広開土地好太聖王」の「奴客たる牟頭婁」の墓であることが銘記されており、また広開土王の死亡に言及していることからこの墓の造営は王の死亡した412年以後、5世紀半ば頃のものであることがわかる[143][144]。牟頭婁は北扶余出身の有力者で、この墳墓には高句麗の建国神話や、彼の祖先の情報と、広開土王にどのように仕えたかが記録されており、高句麗王権の性質や神話、その支配下にある北扶余との関係などについて貴重な情報を提供している[145]


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