高句麗
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注釈^ 実際の書名としては『三国志』「魏書」であるが、『魏書』と銘打つ史書が他に存在することから、区別のために「魏志」という通称が広く普及している。本項でも『三国志』「魏書」は「魏志」と呼称する。
^ a b 『三国志』「魏志」では涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部[13]、『翰苑』引用の『魏略』逸文 および『後漢書』では消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部とある[14]。詳細は高句麗五部を参照。
^ 百済の成立・統合の時期には4世紀半ば、3世紀半ば、前1世紀など諸説ある。ここでは日本の学界において一般的である4世紀半ばとして記述を行う。詳細は百済を参照。
^ 広開土王碑文の該当部分は摩滅が激しく、粛慎の「粛」に当たる部分は判読が困難な状態である。そのためこの部分の釈文は完全なものが存在しない。これを「粛慎」であると最初に解釈したのは青木秀であり、現在でもこの解釈が概ね引き継がれているが、粛慎ではなく朝鮮半島中南部であるとする説もある。代表的なものには?であると解釈する津田左右吉の説、安東(現在の慶尚北道地方)であるとした今西龍の説、漢江流域であるとした王健群の説などがある[42]。ここでは粛慎説を妥当とする武田幸男の見解が他の概説書・研究書で採用されていることから、粛慎として記述する[39][43]
^ 広開土王碑を巡っては、特に倭国関係記事が集中する第1面を巡り、その信憑性を巡って長い議論が続けられてきた。現在では『三国史記』『日本書紀』にも対応する記述があり、高句麗からの百済の離脱、百済から倭への人質や、それによる百済と倭の同盟など大筋で一致していることから、碑文の史料的価値は高いとされる[45]。これを巡る主要な議論については武田幸男「その後の広開土王碑研究」(1993)にまとめられている[46]
^ 中原高句麗碑は、高句麗の新羅に対する優越、新羅が高句麗を宗主として仰ぎ臣従したこと、高句麗が新羅の領内で役夫あるいは軍夫を徴発し組織していたこと、そして朝鮮半島中南部にある現在の忠州市に軍を駐屯させていたことなどを伝える。しかし、年次部分が摩滅により判読に支障をきたしていること、また干支表記であるため60年の間隔を置いて同一の年次表記が行われることなどから碑文が作成された年代には諸説ある。5世紀後半説を取る学者が多いが、5世紀前半とする学者もいる。この問題については木下礼仁と宮島一彦が連名の論文にて詳細なまとめを行っている[52]
^ 更に倭国も600年には初めて隋に使節を派遣したという。この倭国からの使節は隋側の記録にのみあり、『日本書紀』では607年の遣隋使を最初とする。この問題については遣隋使の項目を参照。
^隋書』の記録では「死せる者十に八九」とするほどの損害を出したと伝えられる[70]
^ 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1?正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」など。
^ 無論、このことは高句麗とその後に登場したツングース系の女真族との間に何ら文化的な関係がないということを証明するものではない[125]
^ この推測は後に高句麗五部が方位を用いた東西南北内、もしくは前後上下に改名された事実とも符合する。ただし灌奴部は南部に、絶奴部は北部に改称されているが、この推測では灌は北、絶は南の意味となり矛盾する。村山・金はこれを何等かの理由により南北が誤記されて逆転して記録されたものとして処理している[122]
^ 西谷は広開土王碑の場所を太王陵の東北450メートルとする[133]
^ 広開土王の墳墓を巡っては日本の研究者の永島暉臣慎、田村昇一、東潮らが、谷豊信による太王陵や将軍塚で出土した瓦と平壌で出土した軒丸瓦などの比較などを根拠に将軍塚を広開土王墓に比定している。一方、桃崎祐輔は太王陵を広開土王墓に比定する見解を支持している。中国の学界では太王陵を広開土王墓に比定する見解が有力であり、その論拠は太王陵から馬具や装身具と共に「好太王」銘を持つ銅鈴が出土したことが大きくあげられている[136]
^ ただし、積石塚の中にも断片的ながら壁画が発見されているものは存在する[141]
^ 清岩里廃寺の平面プランは南北軸が40度ほど東に振られているため、実際の方位としては南西面を南面とする。
^ ただし『勝覧』の記録はあくまで高麗(王氏)時代の金剛寺の記録である。高麗時代の金剛寺が高句麗時代の寺院跡に再建されたものであることは考古学的に明らかであるが、「高句麗時代の寺院跡」が高句麗当時の金剛寺であることを確実に同定することはできない。千田剛三は瓦の研究からこの寺院跡の創建年代を5世紀初頭とし、高句麗の金剛寺説を否定している他、谷豊信もまた清岩里廃寺を高句麗時代の金剛寺であるとする説とは合致しない瓦の編年を提案している[167]
^ 李成市のまとめによれば、那珂通世は東明王を夫余国の建国者とするのは伝承上の誤りであるとし、白鳥庫吉は高句麗の建国神話は夫余の建国神話を改作したものであると論じた[192]。そして池内宏は元来夫余の建国者である東明王と高句麗の建国者である朱蒙(東明王)は別人であり、『三国史記』の原史料となった『旧三国史』の編纂過程で誤って混同されるようになったものであるとした[193]
^ 李成市は、冬寿と某鎮の間の変化を単純に半自律的だった朝鮮半島の中国系人士が高句麗王権の下に服していった過程として見るのは早計と指摘する。これは冬寿が「楽浪相」に服していたことと関係する。この地位は高句麗の故国原王が前燕から冊封され「楽浪公」に任命されていたことと関係し、つまりは冬寿は前燕の官爵を媒介にして楽浪公である高句麗王との間に君臣関係を持っていたことが指摘できるためである[204]。そして高句麗王権と外来人の関係については故国原王時代に内と外を分ける高句麗独自の「国」意識の成立が見られることも注目すべきであるという。これによって「国」家にとっての「外」来人」が問題となり、それを王権の下で組織化することが政治的課題になるためである。冬寿から某鎮に至る変化は、こうした高句麗の国家発展と密接に関連しているという[205]
^ 『三国史記』は「靺鞨」と表記するが、これが後世東アジア史に登場する靺鞨ではなく、実態としては?を表すことは津田左右吉が論証して以来、定説となっている[220]
^ 広開土王碑を巡っては、特に倭国関係記事が集中する第1面を巡り、その信憑性を巡って長い議論が続けられてきた。現在では『三国史記』『日本書紀』にも対応する記述があり、高句麗からの百済の離脱、百済から倭への人質や、それによる百済と倭の同盟など大筋で一致していることから、碑文の史料的価値は高いとされる[242]。これを巡る主要な議論については武田幸男「その後の広開土王碑研究」(1993)にまとめられている[46]
^ 広開土王碑文中の倭と百済・新羅の関係の解釈についての研究史は武田 1989, pp. 152-186 を参照。また、武田 2007も参照。日本史学者による考察としては熊谷 2008, pp. 32-48 等も参照。
^ いわゆる「任那の調」はかつて任那が倭に献上していた(とされる)調を、その地を支配する新羅に対して代納することを倭が要求したもので、百済のみならず高句麗との対立も深まっていた新羅側が「任那使」をたててこれを「献上」することで倭国との関係悪化を防ごうとしたものと解される。一般に当時「任那復興」を国策の一つとしていたが、現実的にそれを実現することが不可能であった倭国と、外交的孤立を避けようとした新羅の間で成立した政治的妥協の産物と見做される[256]
^ 『三国史記』「高句麗本紀」に依る限り、広開土王は19代目の王である。広開土王を「十七世孫」とする場合、『三国史記』の伝承と整合させるために、17の基準となる1代目の王を誰とするべきか、また十七世孫というのが王代とするべきか(王代説)、実際の系譜上の世代であるとするべきかなどについて解釈が分かれる。20世紀中の議論については武田幸男が『高句麗史と東アジア』において整理している[267]
^ 朱蒙と東明(聖)王の習合過程についての研究史は李 1998, pp. 63-91を参照。詳細については李 1998, pp. 63-91, 93-11、王の系譜については武田 1989, pp. 281-313 を参照。
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