高句麗
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698
-926
後三国新羅 (後期)
892-935
百済

892
-936後高句麗
901
-918(渤海の遺民)
統一
王朝高麗 918-1392
遼陽行省
1259-1356


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高句麗は別名を(はく)と言う。日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いてもこまと読む。現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。

高句麗の名前の由来について確実なことはわかっていない。高句麗(句驪)という固有名詞が登場する最も古い記録は『漢書』「地理志」に「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年)。みな朝鮮・?貊・句驪の蛮夷の地である」とあるもので、玄菟郡の首県として高句驪、上殷台、西蓋馬が言及されている[2]。驪は麗と同音であり、漢人の蔑視による表現であって意味上の差異はない[3]。高句麗の名称の由来については諸説あり、かつて白鳥庫吉はこれを「高」と「句麗」に分解し、句麗はコル(城)、高はコ(大きい)であるから、原義は「大城」であるとした[3]。李丙Zはコルを白鳥と同じく理解するが、高はスリ(神聖な/首位の)であり、「首邑」「上邑」の意味であるとした[3]

高句麗は文献記録上は貊族として現れる。そして8世紀突厥で造られたオルホン碑文にはボクリ(bokli)という東方の国が登場する。岩佐精一郎はこのボクリが高句麗を指すものであると見、「貊句麗」の音を表したものであろうとした[4]。それに対して護雅夫はこれはbok eliと読むべきで、高句麗を指すものには違いないが、意味は「貊の国」であるとする[4]。だが、貊という種族は古く代から中国の史料に登場し、時代や筆者によって異なる実体を指し示したと考えられる語であるため、高句麗を指す「貊」を漢代より前に登場する「貊」と単純に繋がりのあるものとすることはできない[4]

なお、高句麗は『南斉書』「高麗伝」に「高麗」という国名で表記されており、隋唐代の史書でも高麗と表記する。冊封の際の正式名が「高句麗王」から「高麗王」となったのは520年の冊封が最初であり、高句麗が意識的に高麗へと改名したとする説もある[3]。だが改名したとする決め手もなく、単に省略形が定着しただけである可能性もある[3]矢木毅は、冊封体制における慣例として国号の字数を2文字に揃えた物であるとしている[5]
歴史
建国神話詳細は「東明聖王#建国神話」を参照

『三国史記』「高句麗本紀」冒頭の神話によれば、高句麗は朱蒙(東明聖王)により建てられたという。朱蒙は河神の娘である柳花の息子であるとされる。その神話では顛末は以下のようなものである。夫余王の金蛙が大白山(白頭山)の南の優渤水で柳花に出会い話しかけると、彼女は天帝の子と称する解慕漱と愛し合ったが、解慕漱はどこかへいなくなってしまい、父母は媒酌人もなく人に従ったことを責め、彼女を幽閉したと言った。金蛙がこの話を不思議に思って家に柳花を閉じ込めると、日光が彼女を照らし彼女は身籠った。そして大きな卵を産み、やがて中から男の子が生まれた。これが朱蒙である。幼少より卓越した才能を見せた朱蒙は、夫余の王子たちの誰よりも優れていた。不安を覚えた夫余の王子たちは朱蒙を除くように主張したが聞き入れられず、最終的に暗殺を試みたが、危険を察知した母柳花の助言によって朱蒙は国外へ脱出し、卒本川に至って建国した。なお、「高句麗本紀」の分注異伝では、朱蒙が卒本夫余に来た時、男子のいなかった夫余王が朱蒙の才を見て王女と結婚させ、後に朱蒙が王になったとする。そして国号を高句麗としたので高を氏の名前としたという[6]。『三国史記』に従うならば、この建国は前漢元帝建昭2年のことであり、西暦に直すと前37年となる[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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