満洲の歴史
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玄菟郡
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中国朝鮮関係史
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高句麗は別名を貊(はく)と言う。日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いてもこまと読む。現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。
高句麗の名前の由来について確実なことはわかっていない。高句麗(句驪)という固有名詞が登場する最も古い記録は『漢書』「地理志」に「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年)。みな朝鮮・?貊・句驪の蛮夷の地である」とあるもので、玄菟郡の首県として高句驪、上殷台、西蓋馬が言及されている[2]。驪は麗と同音であり、漢人の蔑視による表現であって意味上の差異はない[3]。高句麗の名称の由来については諸説あり、かつて白鳥庫吉はこれを「高」と「句麗」に分解し、句麗はコル(城)、高はコ(大きい)であるから、原義は「大城」であるとした[3]。李丙Zはコルを白鳥と同じく理解するが、高はスリ(神聖な/首位の)であり、「首邑」「上邑」の意味であるとした[3]。
高句麗は文献記録上は貊族として現れる。そして8世紀に突厥で造られたオルホン碑文にはボクリ(bokli)という東方の国が登場する。岩佐精一郎はこのボクリが高句麗を指すものであると見、「貊句麗」の音を表したものであろうとした[4]。それに対して護雅夫はこれはbok eliと読むべきで、高句麗を指すものには違いないが、意味は「貊の国」であるとする[4]。だが、貊という種族は古く周代から中国の史料に登場し、時代や筆者によって異なる実体を指し示したと考えられる語であるため、高句麗を指す「貊」を漢代より前に登場する「貊」と単純に繋がりのあるものとすることはできない[4]。
なお、高句麗は『南斉書』「高麗伝」に「高麗」という国名で表記されており、隋唐代の史書でも高麗と表記する。冊封の際の正式名が「高句麗王」から「高麗王」となったのは520年の梁の冊封が最初であり、高句麗が意識的に高麗へと改名したとする説もある[3]。だが改名したとする決め手もなく、単に省略形が定着しただけである可能性もある[3]。矢木毅は、冊封体制における慣例として国号の字数を2文字に揃えた物であるとしている[5]。
歴史
建国神話詳細は「東明聖王#建国神話」を参照