高句麗
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^ 朱蒙と東明(聖)王の習合過程についての研究史は李 1998, pp. 63-91を参照。詳細については李 1998, pp. 63-91, 93-11、王の系譜については武田 1989, pp. 281-313 を参照。また、この説と簡潔なまとめ・評価については矢木 2012, p. 35-38 を参照。
^ 『三国史記』「山上王本紀」の原史料は名前不詳の高句麗の古記録であると見られるが、この記録は『三国志』の記録を底本に中国側の記録に登場する伊夷模を山上王に比定していた。一方で『三国史記』「故国川王本紀」の原史料となった『海東古記』は高句麗の古記録を『後漢書』と対照しつつ伊夷模を故国川王に比定したが、高句麗の古記録には『後漢書』に登場するそれ以前の高句麗王である宮、遂成、伯固に対応する諡号が存在しなかったため、最古の王である宮に国祖王(太祖大王)、その次に即位する遂成に次大王、最後の伯固に新大王という安易な命名法による諡号を後から用意したと考えられる。そして『三国史記』の両紀はこの矛盾する記録によってそれぞれの系譜を描いている[272]
^ 東明聖王の諱は『三国史記』には衆解とあって解字は末尾に付されている。これは元来「解」が姓ではなく人名末尾に一種の尊称として付されたものであったことの残滓であると見られ、『魏書』「高句麗伝」にも朱蒙の息子閭達の字として始閭諧が記載されている[275]
^ 例えば「高句麗本紀」大祖大王20年条、大祖大王22年条、次大王2年条など
^日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『新撰姓氏録』記載の高句麗人(渡来氏族)名に方位部が用いられているものは前部14名、後部16名、上部9名、下部4名、南部1名、東部1名、西部1名となる[288]

出典^ 劉? (中国語). 《舊唐書?卷五?本紀第五?高宗下》. "九月癸巳,司空、英國公勣破高麗,拔平壤城,擒其王高藏及其大臣男建等以歸。境?盡降,其城一百七十,?六十九萬七千,以其地為安東都護府,分置四十二州。" 
^ a b c d e f g h i j k 田中 1995a, pp. 20-22
^ a b c d e 田中 1995a, pp. 23-24
^ a b c 田中 1995a, pp. 16-18
^ 矢木 2012, pp 51-52
^ 『三国史記』「高句麗本紀」井上訳, p. 6
^ 『三国史記』「高句麗本紀」井上訳, p. 7
^ a b 武田 1997, p. 278
^ a b 田中 1995a, p. 22
^ a b c d e 早乙女 2000, p. 108
^ a b 早乙女 2000, p. 112
^ a b c d e f g h 田中 1995a, p. 25
^ 『三国志』 井上秀雄 他訳, p. 114
^ 『後漢書』 井上秀雄 他訳, p. 103
^ a b c d e f g 田中 1995a, p. 26
^ a b c d 武田 1997, p. 279
^ a b 武田 1997, p. 280
^ a b c d e 武田 1997, p. 281
^ 李 2000, pp. 51-52
^ a b c 武田 1997, p. 284
^ a b c 李 2000, p. 52
^ a b c 井上 他訳注より, p. 122
^ 武田 1997, p. 285
^ a b c d 武田 1997, p. 286
^ 『三國志』「魏志」巻28/王?丘諸葛ケ鍾傳第28
^ a b c d 武田 1997, p. 287
^ 『三国史記』「高句麗本紀」, p. 100、東川王21年(247年)条
^ 武田 1997, p. 288
^ 『三国史記』井上 訳注より, p. 116
^ a b c 李 2000, p. 53

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