高倉健
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名の由来は「野郎(=男)ばかり」なのと「何でもやろう」を語呂あわせにしたもので、何か月かごとに集まってその時の幹事が決めた遊びをしていた[6]。高倉は酒を飲まないので野球をしたり、山城が幹事の時には遊廓に行って、お大尽遊びの真似事をしたりしていた[6]明治大学の先輩で東映ニューフェイスでも1期上である山本も高倉と仲が良く、この集まりに参加していた[6]。『網走番外地シリーズ』『昭和残侠伝シリーズ』で共演した潮健児は自伝『星を喰った男』の中で、「面倒見がよく、周囲に気を遣い、傍に誰か話し相手が居ないとしょげてしまう程の寂しがり屋」「大勢役者が揃って『何かやる』という時、その言いだしっぺは大抵、健さんだった」と回想している[95]

長嶋茂雄とは若い時分から付き合っており[10][96]、一緒に成田山新勝寺初詣に行っていたこともある[10][97]。長嶋の長男・長嶋一茂の名付け親は高倉とされており[98]、一茂が1999年12月3日に箱根神社で結婚式を挙げた時、冠婚葬祭の類にはめったに現れない高倉が出席したので、結婚式取材に駆けつけた取材陣が驚いた一幕があった。長嶋とは東日貿易の社長・久保正雄を通じて知り合い[99][100]、高倉にとって久保は親代わりともいうべき人で[9][10]江利チエミ後見人でもあり[101]、江利は久保を「パパ」と呼んでいた[101]。久保はインドネシアの戦後補償を巡り[102][103]瀬島龍三とタッグを組み[10]デヴィ・スカルノを使って[10][103][104]池田勇人スカルノを繋いだ政商である[10][100][104]

村田兆治の引退試合中継を見て感銘を受け、それまで面識も無かった村田の住所を関係者に一通り尋ねて調べ、さらに留守中だった村田の自宅前に、花束を置いて帰ったという話がある[105]仰木彬は高校の後輩、ビートたけしは大学の後輩で1985年の『夜叉』で共演以来、互いに「たけちゃん」「健さん」と呼び合う仲であった[82]

田岡一雄江利チエミとの結婚披露宴へ招待したり[23][106][107]、江利と共に清川虹子の自宅で田岡や美空ひばり小林旭夫妻とも親交した[108]。酔っていた小林が高倉に自分の腕時計をプレゼントしようとしたが、高倉は丁重に断るものの、当時の小林は映画スターとして高倉より格上だったこともあり「受け取れ」と強引に迫られ、困り果てていた高倉をその場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と助け舟を出し、険悪になりかかった雰囲気を丸く収めてもらった[108]。田岡が1965年(昭和40年)に心筋梗塞危篤に陥り、面会謝絶だったが高倉は江利を伴い、見舞いに訪れた[109]。田岡の自伝映画、1973年の『山口組三代目』、1974年の『三代目襲名』は、田岡が「健ちゃんに俺の役をやってもらえへんかな」と田岡が高倉を指名したもの[110]。撮影現場を訪ねてきた田岡に激励されている[111]

週刊平凡』1966年10月13日号の高倉の取材記事では、高倉ほど友人の少ないスターはいない、スターで付き合いがあるのは尊敬する三國連太郎萬屋錦之介北大路欣也の三人ぐらいと書かれている[9]

2005年8月12日午前9時43分、『現代任侠史』の石井輝男が死去。石井の遺志により、網走市内の潮見墓園に墓碑が建立され、2006年8月5日、納骨の儀が執り行われた。“安らかに 石井輝男”と記されたこの墓碑の碑文は、高倉によってしたためられたものである[112]

2009年11月、同年8月に亡くなった大原麗子の墓参に訪れ掃除をし、30分以上語りかけていたことが2010年8月4日に報じられた[54]

草g剛へ自ら手紙を書いて以降、草gとは文通や電話のやり取りをしており、二人で食事をしていたり、草gを自宅へ招き入れるなどの親交があった。遺作『あなたへ』で共演している[113]。同作に関する授賞式では、自身の代理出席を草gに頼んだ[114]

2012年10月2日午後3時17分、『あなたへ』で共演した大滝秀治肺扁平上皮がんのため、87歳で死去。訃報を受け、公式に「大滝さんの最後のお仕事の相手を務めさせていただき、感謝しております。本当に素晴らしい先輩でした。静かなお別れができました。」とのコメントを発表した[115]

2013年6月5日、横浜市のロイヤルホールヨコハマで行われた勝新太郎の『17回忌を偲ぶ会』では渡哲也藤村志保らとともに発起人に名を連ね、会場にも足を運んでいる[116]

2014年8月26日午後9時33分に亡くなった米倉斉加年のお別れの会が同年10月13日に開かれた際に、故人に宛てて弔電を発した[117]

旧友の小林稔侍は中学生の頃から高倉健のファンであった。東映に入って以後大部屋時代からの恩人であり、何度も小遣いをもらったり[118]、小林が家を建てた時や結婚する際に保証人になってもらったという[119]。高倉に対する恩や思い入れは強く、長男に「恩を一生忘れないこととありがとうの思いを込めて」、高倉と同じ「健」と名付けたり[120]、「健さんのためなら腎臓を一つ提供しても構わない」と思っているほどである[121]。そういうこともあって「端役でなく、ちゃんとした役で健さんと共演し、恩返しがしたい」との思いがあり、1999年の映画『鉄道員(ぽっぽや)』でその願いが叶うこととなった。その『鉄道員(ぽっぽや)』で、第23回日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞した。『鉄道員(ぽっぽや)』の中で高倉と小林が抱きしめ合うシーンがあり、これについてある映画評論家が講演会で「あれはホモじゃなきゃできない」と発言したのが元で、ある女性週刊誌に「高倉健と小林稔侍はホモ」と大見出しにされて掲載されたこともあった[122]。また、高倉健が亡くなる3年前から体調が悪い事を高倉自身からあかされていたが、それを伏せていた事を『徹子の部屋』で語っている。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}山村聡とは映画で何度か共演しており、親密である。[要出典]
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