高倉健
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ジョン・ウーは、『映画秘宝』2004年6月号と7月号のインタビューで高倉を憧れの映画スターの一人に挙げている[注釈 12]。また『男たちの挽歌』のユンファの衣装やキャラは『網走番外地』や『ならず者』の影響があり、『駅 STATION』はリメイクしたい作品だと語っている[151]

文春ムック「高倉健 KenTakakura 1956-2014」によれば、鴨下信一は「初心者はまず『網走番外地』から初めよ」と発言[152]。鈴木敏夫は『日本侠客伝 昇り龍』を「仁侠映画の最高傑作」としている[153]。また同書を書評した七つ森書館の編集者・上原昌弘は同評で「わたしにとって高倉健は『幸福の黄色いハンカチ』のヒト。号泣しましたねえ。」と発言[154]

野沢尚は1999年にキネマ旬報が行ったアンケートで『駅 STATION』を選んでいる[155]。同企画で石井克人は『幸福の黄色いハンカチ』をベスト作品に選んでいる[156]

春日太一のインタビュー本で仲代達矢は、かつて「雲の上の存在」といわれ神秘性を持っていた映画俳優たちだが、インターネットなどの影響で神秘性がなくなり「役者」という重い響きが似合う俳優がいなくなった現在においても、神秘性を持つ数少ない役者として高倉の名を挙げている[157]

前田敦子は映画に関する自身の著書で、『幸福の黄色いハンカチ』を好きな映画に挙げている[158]

仕事への真摯な姿勢に北大路欣也も影響を受けたと述べている[159]
その他

映画関係者や旧友から、本名を「おだ ごういち」と呼ばれることが多く、高倉もそう呼ばれることを否定しなかったが、親族が呼ぶ本名は「おだ たけいち」であり、高倉の姪もそう証言している[160]先祖の一人に北条篤時(金沢文庫の創設者・実時の子)がいる[161]。篤時の子孫は九州[6] で北条の名を捨て「小松屋」の屋号で両替商を営み、後に福岡藩黒田家から名字帯刀を許されてて田姓を名乗るようになった[6]江戸時代末期に『東路日記』を記した、筑前国庄屋内儀・小田宅子(おだ いえこ)も先祖にあたる[162]。また高倉は生前、小田貴月という33歳年下の女性を養女にしており[163]、17年近く同棲していた事が死後に判明していた中、2023年にNHKにて放送された番組にて「最後の17年をともに過ごした『パートナー』」として紹介された[163]

バラエティ番組トーク番組への出演は『スター千一夜』『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ)、『土曜大好き!830』(関西テレビ)、『徹子の部屋』(テレビ朝日)や、親交のある田中邦衛北大路欣也と3人で出演した1980年の『すばらしき仲間』(中部日本放送)程度であったが、平成になってからは、新作映画のプロモーションを兼ねて『SMAP×SMAP』(1997年9月15日、関西テレビ・フジテレビ)や、2001年5月17日には『クローズアップ現代』「第1424回 高倉健 素顔のメッセージ」(NHK)で国谷裕子からのインタビューを受けている。ちなみに『SMAP×SMAP』(BISTRO SMAP)にゲスト出演したこの回は、2005年12月26日に放送された同番組の特番『SMAP×SMAP 歴史的瞬間全部見せます!! 史上最強の4時間半SP!!』で視聴者から寄せられた『BISTRO SMAP名場面リクエスト』第1位に輝いている。

草g剛にサプライズで出演したいという高倉自らの希望が実現し、2012年8月18日に放送された生放送のテレビ番組に生で出演した。同番組の放送内容は主演映画『あなたへ』の公開に際しての高倉健特集で、当映画に出演し高倉と共演した草gが生出演することは告知され、前述の理由から高倉が生出演することは草gのみならず視聴者にも事前に知らされなかった。同番組には、草gが撮影外のことで、高倉に呼ばれてホテルで二人で朝食をとったときのエピソードを話している最中に登場した。高倉にとって15年ぶりのテレビ番組のゲスト出演で、高倉が生放送の番組に出演するのは初[113]、かつ、生涯で一度きりのこととなった[82]。翌月8日と『プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル』と10日に放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健インタビュースペシャル』(NHK)では『あなたへ』の撮影現場への長期密着取材に応じ、俳優生活56年にして初めて自身のプライベートに関することや本音、俳優としての信条などの一部を明らかにしている。

オレたちひょうきん族』に出演したかったらしく、ビートたけしに「僕にもひょうきん族出演の機会をください」と署名した写真を渡したことがあるが、それを聞いた高田文夫は「『タケちゃんマン』に弟子の“ケンちゃんマン”を出そう」と提案している[164]

1972年、東映の先輩である萬屋錦之介(年は高倉の方が1歳上)の勧めで神奈川県の鎌倉霊園に生前墓を建立している。この墓所内には上述にある、「この世に生を受けなかった我が子」のために、水子地蔵も建てられている[165]

TBSラジオの人気番組『大沢悠里のゆうゆうワイド』のファンであり、同番組からゲスト出演のオファーがあったが、映画撮影のため出演は叶わなかった。後日、同番組宛に、その旨を伝える手紙を送っている。

高倉と親しかった横尾忠則によると、高倉は1970年(昭和45年)11月25日に起こった三島事件に触発され、三島由紀夫の映画を製作する予定だったという[166]。具体的プランも煮詰まり、ロスアンゼルスへ何度も渡航していた高倉について横尾は、「次第に健さんのなかに三島さんが乗り移っていくかのようで、僕は三島さんのが高倉健さんに映画を作らせようとしているのだなと感じていました」と述懐している[166]。ところが土壇場で三島の妻である平岡瑤子の了解が得られず、映画製作を断念せざるを得なくなった。仕方なく高倉健は横尾に電話してきて、多磨霊園に一緒の墓参りに行きましょうと誘い、「カメラを持ってきて下さい。一緒に撮りましょう」と言ったという[166]


羽田空港で高倉がジャイアント馬場に声をかけた際には、馬場は高倉健が誰かわからず「俳優? 水戸黄門には出てねえだろ」と付き人に答え軽くあしらった[167] といったエピソードがある。

ドキュメンタリー映画『健さん』での山下義明 (東映の演技事務担当)の証言によると、高倉は朝が弱く、東映時代は毎日20分ほど必ず遅刻して現れた。また、西村泰治(元・付き人)の証言によると、映画の中で多くの人を殺した罪への対処として、長寿院滋賀県大津市)のに参っていたという。
受賞・受章

第1回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞(1978年[168] - 『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』

第4回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞(1981年[169] - 『動乱』『遥かなる山の呼び声

第5回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞(1982年[170] - 『駅 STATION』


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