高倉 健[注釈 1](たかくら けん、英?Ken Takakura、1931年〈昭和6年〉2月16日 - 2014年〈平成26年〉11月10日)は、日本の俳優・歌手。本名は小田 剛一(おだ たけいち)[3]だが晩年は親族に剛一郎(ごういちろう)と名乗った[4]。高倉プロモーション所属。
福岡県中間市出身[5]。1998年に紫綬褒章、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。 1931年2月16日(月曜日)、筑豊炭田にある福岡県中間市[4] の裕福な一家に生まれる。4人きょうだいの次男で、上2人は息子、下2人が娘であった[4]。父の小田敏郎は旧日本海軍の軍人で、戦艦「比叡」乗り組みなどを経て[4] 炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[6]。母の小田タカノは教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。太平洋戦争の終戦を迎えた中学生の時、アメリカ合衆国の文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った[6]。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[6]。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[6]。旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。 1955年に大学時代の知人のつてで、当時、美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ[7]、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。マキノ雅弘は「高倉は山本麟一と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している[8]。同期には今井健二、丘さとみ、岡田敏子、五味龍太郎らがいた。高倉は東映に入社してしばらくの間[9][10]、東日貿易の社長・久保正雄の家に居候した[9][10]。 ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所でエキストラ出演など6か月の修行を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという[11]。しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画『電光空手打ち』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。 アクション映画、喜劇、刑事物、青春物、戦争映画、文芸作品、ミステリ映画など、幅広く現代劇映画に主演・助演して、東映の期待は大きかったが、その後の作品はどれも当たらなかった[7][12][13][14]。片岡千恵蔵、中村錦之助、美空ひばりの映画などにも助演していた。当時の東映の看板スターである美空の主演シリーズ『べらんめえ芸者』の2作目から出演するが、芝居の硬さが目立ち、見え隠れする暗い陰や低音の声もあいまって、派手さや洗練さに欠ける地味で暗い雰囲気が漂った[14]。粋さが求められるひばりの相手役には違和感があり、ひばりも高倉と組まされ続けることに納得していなかったが[14]。日活出身の井上梅次が監督した『暗黒街最後の日』などの[12]、ギャング映画にも出演しだした[15][16][17]。 1963年の『人生劇場 飛車角』で、高倉は準主役で出演[12][15][18][19][20]。高倉は本作で任侠映画スターとしての足掛かりをつかむが[21][22]、1964年の『日本侠客伝』では降板した中村錦之助に代わり、高倉は主役となる[15][23][24][25][26]。
生涯
俳優になるまで
スターへの道のり