驩兜は堯(ぎょう)の息子である丹朱(たんしゅ)のことであり、三苗人の論戚誼(ろんせきぎ、三苗)と組んで堯に対して反乱を企てたとされ、それが四罪と目される由来となっている。この闘いに敗れたのち、丹朱の子孫たちは南方に落ちのび讙頭国を建てたとされ、その国の様子や位置は『山海経』などに記されている(『史記』舜本紀には、驩兜の子孫たちが南の方角にすむ「南蛮」たちになったと記されている[3])。
驩兜・讙頭・??・讙朱・丹朱が同一の存在であるとの考察は古くから『読書偶識』(巻2)や郭璞による『山海経』の「讙頭」につけられた注などに存在する[4]。しかし、『山海経』には讙頭は鯀の孫であるという文章も見られる[5]。また、『山海経』の海内南経には「帝丹朱」の墓[6]、海内北経には「帝丹朱」の台[7]というものが記されており、中国神話学者の袁珂はこれを驩兜の墓や台であるとしている[4]。
『史記』「五帝本紀」などでは堯に対して放斉が丹朱を、驩兜(丹朱)が共工を紹介して登場しているが、両者ともに堯からしりぞけられている。 器物などの発明の伝説について記した『世本』には、丹朱のために堯がつくったのが囲碁のはじまりであるとする伝説[8]が記されており、囲碁に関する中国の古い文献にはその伝説が引かれることもある。丹朱に与えられた囲碁は犀角や象牙などとても贅沢な素材でつくられていたという[4]。元の時代に編まれた囲碁についての本・『玄々棊経』は、「あるひとの言うには」というかたちで、「天下を治めるための教養などを身につけさせるために与えられた囲碁が丹朱に良い影響をもたらしたとは言えぬし、遊具をただ与えたのみであったことは愚かな選択だったのではないか」という俗説的な意見を序文に載せている[9]。
丹朱と囲碁
脚注^ 『史記』に見られる表記。
^ 『神異経
^ 『史記』舜本紀「放驩兜於崇山 以変南蛮」
^ a b c 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 268-269頁
^ 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 380-382頁
^ 『山海経 中国古代の神話世界』高馬三良 訳 平凡社ライブラリー ISBN 4582760341 1994年 134頁
^ 『山海経 中国古代の神話世界』高馬三良 訳 平凡社ライブラリー ISBN 4582760341 1994年 142頁
^ 『世本』作篇「堯造囲碁、丹朱善之」
^ 小林鍵太郎(校訂) 『玄々棊経』 囲碁雑誌社 1913年 1頁
関連項目
堯
四罪
讙頭人
三苗人 - 「苗民」は讙頭の子孫であるともされる。
表
話
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