また、ゾウの生息地域では、これを調教して騎乗する戦象と呼ばれる類似兵種も存在し、インドでは15世紀の中頃まで使用された。
中世中世ヨーロッパの騎士(1213年・ミュアの戦い)マムルーク騎兵。タタール騎兵。
鐙は4世紀までに中国で発明され、7世紀までには東ヨーロッパへ伝わったとされている。鐙を使用することにより、騎兵は馬と鎧を纏った自身の体重を手に持った槍や矛の矛先に集中させ攻撃することが可能となり、騎兵は機動力に増して強大な攻撃力を期待できるようになった。これらの理由から、モンゴル高原の遊牧民、中国の南北朝時代の北朝や隋や金、中東のサーサーン朝、欧州の東ローマ帝国やフランスなどでは、騎手が全身鎧を装着し、騎馬にも鎧を装着させるなど騎兵の重武装化が進んだ(重装騎兵)。欧州地域では馬種改良により大柄で力の強い重種馬が出現していたことも騎兵の重装化を支えたが、騎兵の過剰なまでの装甲化は、魯鈍な重種馬の利用と重量の増加から機動力を殺ぐ結果をまねいた。重装備の装甲騎兵は、軽騎兵や歩兵陣形の側面または後方に温存され、戦闘の最終段階で敵歩兵を突破する戦力として用いられた。モンゴル高原や中央アジア、キプチャク草原などの北アジアでも騎兵の重装甲化は進んだが、ヨーロッパにおけるような過度の重装化には至らず機動力が失われることはなかった。
ヨーロッパでは重騎兵である騎士が戦争の花形となり、槍で近接攻撃を行うことがよしとされ、弓などの射的武器を敬遠する風潮や儀礼化した騎士同士による一騎討ちが戦争の体系となるなかで大いに栄えた。また騎士による競技も盛んとなった。中世後期になり、それまでの儀礼的な戦闘が敵戦力の壊滅を目的とする殲滅戦に変わっていくと、歩兵戦力の重要性が高まった。歩兵は密集陣形をつくり、長弓(ロングボウ)や弩弓(クロスボウ)のような投射武器やハルバード(Halberd 槍斧鉤形状長柄武器)やパイク(5-6mの長槍)のような長柄武器で騎士に対抗した。歩兵の対騎兵戦術が整備されるとともに、戦場での騎士の重要度は次第に減少していった。
東アジアでは大規模な民族移動による影響も相まって、数百年ぶりに安定した統一中国王朝として現出した唐帝国ではそれ以前の王朝と比べて騎兵の重装備化が進み、常備軍の中における騎兵部隊の割合も大きく増えた。唐はこの騎兵戦力を主力とした強力な遠征軍を用い、北方遊牧民の大国であった西・東突厥、東北アジアの最強国であった高句麗を次々と滅ぼし、ユーラシア大陸における随一の超大国として君臨した。唐滅亡後に良馬の産地であった燕雲十六州や河套平原がそれぞれ契丹や西夏などの異民族によって併合されたため、宋は強力な騎兵部隊を編成することができず、他国との戦争において終始劣勢に立たされることになった。弩や火薬を用いた兵器などがこの時代にて大きく発達したのも宋が遼や金の騎兵に対抗するために遠距離武器を重視したことによる影響であるとの説がある。
遊牧民族の騎馬軍団はこの時代の最強の軍隊である。モンゴル高原や中央アジアなど遊牧民の生息域は常に良馬の供給源であり、さらに農耕国家の軍隊には欠かせない補給を無視できる遊牧生活の特性ゆえ、一度でも強力な指導者が現れればフン帝国、突厥帝国やモンゴル帝国のように、ユーラシア大陸の複数地域に跨って巨大帝国を築いた。これらの帝国が崩壊した後も、モンゴル系やテュルク系民族はその強力な軍事力を基にイスラム世界やインドなどでマムルーク(奴隷軍人)として力を持ち、時には在来勢力に代わって政権を掌握することもあった。
近世ポーランドのフサリア隊(1604年)
ヨーロッパではパイクの登場や火器の発達、テルシオ戦術の普及により、旧来の重武装し槍突撃で敵を粉砕する騎兵は姿を消すようになった。かわって登場したのが、銃で武装した乗馬歩兵である竜騎兵や、胸甲騎兵、火縄銃騎兵といった火器を活用する騎兵であった。一部ではカラコールなどの技巧的な戦術も見られた。しかし17世紀頃になると、ポーランド王国大元帥スタニスワフ・コニェツポルスキ、スウェーデン王グスタフ・アドルフ、フランス王ルイ14世らによって、発達した火器の利用と共に騎兵のサーベル突撃などを復活させた近代的な運用方法が生み出され、騎兵は歩兵、砲兵に並ぶ3兵種の一つとなった。なお、重騎兵の装甲をも銃器が貫通できるようになると全身甲冑はもはや不合理なものとなり、装甲の面積を限定して全身甲冑より厚く重い鉄板を用いた胸甲(Kurass、当初は頭から膝下までを覆う甲冑)を重騎兵は用いるようになった。時代が進むと、より簡素な背当てと胸当てで文字通り胸部を覆う程度にまで重騎兵の胸甲は縮小されていった。
チャルディラーンの戦いではオスマン帝国の歩兵常備軍がサファヴィー朝の騎馬軍団を相手に勝利したり、文禄・慶長の役でも鉄砲で武装した日本の軍が明の騎兵隊を打ち破るなどした。