明治になり、駿府が徳川宗家ゆかりの地であることから、府中は不忠に通ずるとして新政府に恭順の意を示すため改名、駿府に政庁を置いていた藩は静岡藩と命名された。名称は、駿府の北西に位置する賤機山(しずはたやま)にちなむ。廃藩置県によって、静岡藩の後継として静岡県が成立。1889年4月の市町村制度発足に伴い旧駿府城下96ヵ町の地域を中心とした静岡市が成立した[4]。
駿府城 巽櫓 東御門(復元)
駿府城堀内の官公庁街
御幸通
伝馬町
中町
歴史
古代付近が有力である。
※横田の駅、曲金の古代史跡、安倍の市など 室町時代から戦国時代にかけて、今川氏の城下町として栄えた。今川氏は京の都を模して碁盤の目状の駿府の街造りを行い、現在でも地名や町名等に京都と同じ地名や町名が残る。また、荒廃した京の都を逃れた多数の公家や文化人が駿府に居を移し、「東国の京」或いは「東国の都」と呼ばれ、戦国三大文化 今川氏の人質として幼少時代を駿府で過ごした徳川家康が、1585年に駿府を本拠地に定め、城下を整備し、かつての繁栄をとり戻した。家康は1590年に関東移封となり、豊臣秀吉配下の中村一氏が駿府に入るが[5]、家康は江戸幕府を開いたのち隠居するとして再び駿府城に居住、大御所政治が展開された。大御所家康公が駿府に君臨していた時代は、「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が整備され、人口10万人とも12万人ともいわれ、上方(京・大阪)、江戸(15万人)に並ぶ大都市となった。この時期、名目上の駿府城主(駿府藩主)は家康の十男・頼宣(よりのぶ)であった。 家康死去(元和2年、1616年)の3年後、頼宣は紀州に移封となり、秀忠三男の忠長(ただなが/駿河大納言)が駿府城主になる。忠長の改易以後は、大名は置かず城代が配属され、幕府の直轄都市として駿府城代・駿府町奉行が置かれた。 東海道が整備されると、駿府城下には、江戸から数えて十九番の宿場、府中宿が置かれた。 府中宿は東海道五十三次中、最大の都市であった。 江戸幕府が滅ぶと、駿府に政庁を置いた藩(駿河府中藩、駿府藩)は「静岡藩」と新たに命名された。1871年の廃藩置県で静岡藩が廃され、静岡県が成立[4]。 1889年の市制施行により、駿府城下にあたる安倍郡の1宿74町および有渡郡の50町が合併して旧 静岡市が成立した[4]。 現在、静岡市葵区の行政区画(町丁)として「駿府町
中世
徳川時代
明治
駿府を題材にした作品
影武者徳川家康(隆慶一郎)
シグルイ(山口貴由)
駿河城御前試合(南條範夫)
脚注^ “家康公の生涯 - 隠居でなかった家康の晩年
^ “駿府のまちづくり”. 静岡市. 2020年12月5日閲覧。
^ “静岡まつりと駿府九十六ヶ町 。静岡まつり公式ページ”. shizuokamatsuri.com. 2020年12月5日閲覧。
^ a b c 『日本地名大系 静岡県の地名』(1988年)平凡社
^ “駿府城跡、豊臣方の「幻の城」天守台の石垣見つかる”. 毎日新聞 (2018年10月16日). 2018年10月17日閲覧。
関連項目