駆逐艦
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水雷艇を大型化・高速化して登場したのが駆逐艦であったが、その駆逐艦もまた、兵装の強化と航洋性の向上を目指して順次に大型化され、上記の「ハヴォック」が240トンであったのに対して、1900年前後には400?600トン級の艦が多く現れていた[1]。そして駆逐艦の航洋性の向上に新たな局面を拓いたのが船首楼の増設であり、1901年ドイツ帝国海軍が竣工させた新型駆逐艦(大型水雷艇)であるS90が船首楼を備えて良好な航洋性を得たと報じられ、この情報を得たイギリス海軍も、1904年竣工のE級で船首楼を付した[21]

またこの頃には、従来の駆逐艦で用いられていたレシプロ蒸気機関が性能的な限界に近づいていたことから、蒸気タービンの導入が進められ、イギリス海軍は1899年進水「ヴァイパー」および「コブラ」にパーソンズ直結タービンを搭載して、「ヴァイパー」は公試で36.869ノットを記録した[22]。イギリス海軍では、ドレッドノート級戦艦と高速駆逐艦による艦隊編成を構想して、1905年度計画では、戦艦に随伴しうる航洋性を備えた駆逐艦として蒸気タービンを備えたトライバル級(F級)(最大1,090トン)の建造に着手するとともに、飛躍的に大型化した「スウィフト」(常備2,170トン)を建造した。ただし「スウィフト」では、原型になったE級の約3倍まで建造費が高騰したことから、同型艦の建造は行われなかった[17]

イギリス駆逐艦はあくまで来襲水雷艦艇の撃破を第一としていたことから、兵装の面では艦砲を重視しており、魚雷はその次とされていた[19]。これに対し、ドイツ駆逐艦は逆に艦砲よりも魚雷装備を重視しており、水雷襲撃の際の被発見性を低減するために艦影も低く抑えられていた[23]。しかしその後、魚雷の性能向上に伴って、主力艦自身の速射砲で敵駆逐艦を撃退することは困難になり、駆逐艦の護衛がつけられるようになったことから、雷撃のまえにこの護衛艦を排除する必要が生じた[21]。このこともあり、第一次世界大戦の戦訓では、イギリス駆逐艦の強力な砲力は敵護衛艦艇の排除に役立ち、水雷襲撃の成功にも寄与するとされた[23]。戦中には、ドイツも15センチ砲を搭載した2,000トン級の大型駆逐艦の建造に着手したものの、終戦までに2隻(S-113・V-116)が竣工したのみであった[24]

第一次世界大戦は艦隊型駆逐艦の完成度を更に高めたが、同時に駆逐艦の用途を著しく拡張した[17]。ドイツ帝国海軍の無制限潜水艦作戦に対抗するために水中聴音機や爆雷を備えて対潜戦に対応し、また機雷敷設・掃海機能を備えて機雷戦にも対応した[17]。このように、小型のうえに高速で適当な兵装を持つ駆逐艦は、近代的な海上戦に付随して生起する様々な局面にも柔軟に対応できたことから、主力艦の護衛と水雷襲撃という固有の任務に加えて、高度の汎用性が要求されるようになった[17]

独海軍のS90。船首楼を備えて航洋性を向上させた。

英海軍の「スウィフト」。飛躍的に大型化した。

旧独海軍のS-113。大口径砲を備えた。

ヴェルサイユ体制下 (1920?30年代)

1919年ヴェルサイユ条約締結ののち、ドイツが第1次大戦中に建造した大型駆逐艦であるS-113・V-116は、賠償艦として、それぞれフランスとイタリアに引き渡された。また特にイタリア海軍は、地中海という限られた海域を主たる作戦海面とすることから、駆逐艦よりも大きいが高速軽快な偵察艦を建造してきていた[25]。これらを踏まえて、1920年代より、フランスはシャカル級、イタリアはナヴィガトーリ級として、従来よりも大きく大型・高性能化した駆逐艦の配備を開始した[26]

1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約による主力艦の保有制限に伴って、日本海軍は、その制限外である駆逐艦の強化を図ることでそれを補うことを構想し、画期的な重兵装と航洋性を両立させた特型駆逐艦を開発した[21]。その後、1930年ロンドン海軍軍縮会議によって巡洋艦にも保有制限が課されると、イギリス海軍は、シャカル級や特型を参考に、軽巡洋艦の任務の一部を肩代わりできるように砲熕火力を強化した駆逐艦として、1938年よりトライバル級の配備を開始した[27]。またアメリカ海軍も、特型に対抗して、ロンドン条約の制限枠を最大限に活かしたポーター級を開発し、1936年より配備を開始した[28]

一方、1930年代後半のイギリス海軍は、これらの大型・高速で強力な駆逐艦とは逆に、船団護衛を想定した小型・低速の駆逐艦の検討も着手していた。これによって開発されたのがハント級駆逐艦で、ポーランド侵攻の3ヶ月前、1939年6月に9隻が起工されたのを皮切りに建造が始まった[29]

仏海軍のシャカル級。戦間期の大型駆逐艦の嚆矢となった。

日本海軍の特型。画期的な重兵装と航洋性を両立させた。

英海軍のハント級。護衛駆逐艦の嚆矢となった。

防空・対潜戦能力の強化 (第二次世界大戦中)

第二次世界大戦において、ドイツ海軍Uボート空軍の攻撃に直面して、イギリス海軍は開戦時の駆逐艦保有数の90パーセント以上にあたる159隻を喪失したが、そのうち.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}3⁄4が大戦前半の1942年までに失われるという、壊滅的被害を受けた[17]。この状況に対し、イギリス海軍は、アメリカから譲渡された旧式駆逐艦をタウン級駆逐艦として再就役させるとともに、あえて性能を一定程度妥協した戦時緊急計画型駆逐艦(英語版)の量産を進めていった[17]。また既成艦を含む戦時中のイギリス駆逐艦の多くは、雷装の一部を撤去して対空兵器を増備するとともに、対潜兵器や新型の探信儀および短波方向探知機の搭載、レーダーの更新・増備を進め、主力部隊の随伴用から対空・対潜重視の汎用艦へと変貌していった[17]

日本と違ってアメリカ駆逐艦は第二次ロンドン海軍軍縮会議の制約を受けていたが、そのような不利な条件にも関わらず、早期から両用砲の搭載を志向した。その後、1941年度からは、軍縮条約の制約から脱したフレッチャー級の大量建造に着手した[30]。アメリカの優れた工業力を背景として、同級は兵装と航洋性をよくバランスした優秀な艦隊型駆逐艦となり、アレン・M・サムナー級ギアリング級と順次に設計を改訂しつつ、3クラス合計341隻が建造された[30]。またこれらの艦隊型駆逐艦と並行して、護衛駆逐艦の大量建造も開始された。これは大戦初期の対潜戦の実態やイギリスのハント級などを参考に、艦隊型駆逐艦を簡素化するかたちで開発されたもので、1943年3月末より就役を開始し、戦後の完成艦も含めて合計563隻が竣工した[31]


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