駆逐艦
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当時、重砲でも大型の装甲艦を撃破することは難しかったのに対し、このように魚雷を用いれば安価な小型艇でもこれを撃破しうることが着目されて、1880年代には各国海軍は競って水雷艇を建造した[1]1890年末の時点で、7つの大海軍国の合計800隻以上の水雷艇があったが、1896年末の時点では、同じ7ヶ国だけでも1,200隻以上に増加していた[1]1895年威海衛の戦いでは、大日本帝国海軍により、世界初の大規模な魚雷攻撃が実施され、多大な戦果を挙げた[15]

このように水雷艇が台頭・普及するのに伴って、それらの襲撃から主力艦を防護する必要が生じた。その任に充てるため、まず1880年代後半より、水雷巡洋艦を元に小型・高速化を図った水雷砲艦が登場した[16]。しかしこれは外洋での航洋性が十分でなく、また小型の艦に大出力の機関を搭載するため、振動などのトラブルが耐えなかった。これに対し、敵の水雷艇の攻撃を防ぐには、より大型で高速・強力な水雷艇をもってするのが効果的であるという考え方のもとで登場したのが、水雷艇駆逐艦(Torpedo Boat Destroyer, TBD)であった[1]。イギリス海軍の1892年度計画で建造された「ハヴォック」と「デアリング」がその端緒となったが[注 1]、水雷艇より細長く軽量な船体、コンパクトで大出力の機関、そして発射速度と追随性に優れた速射砲の開発成功に支えられてこの新艦種は成功を収め[17]、後には単に駆逐艦と呼ばれるようになり[18]、たちまち世界各国に普及していった[1]

このような経緯から、駆逐艦の第一の武器は敵の水雷艇を撃破するための砲であったが、構造的には水雷艇を大型化したものであり、水雷艇の固有任務であった水雷襲撃を、水雷艇では行動困難な悪天候下でも果たしうることから、魚雷も併せ持つようになった[19]1905年日本海海戦では、白昼決戦後にウラジオストックに向けて避退するロシア主力部隊に対して日本の水雷戦隊が夜襲を実施したが、駆逐艦は水雷艇よりもはるかに高い確率で敵艦隊を発見して襲撃を実施しており、海戦の勝利を決定づけた[20]

1880年の英海軍水雷艇

初の水雷艇駆逐艦「ハヴォック」

大型化と汎用性の要求 (1890年代?1910年代)

水雷艇を大型化・高速化して登場したのが駆逐艦であったが、その駆逐艦もまた、兵装の強化と航洋性の向上を目指して順次に大型化され、上記の「ハヴォック」が240トンであったのに対して、1900年前後には400?600トン級の艦が多く現れていた[1]。そして駆逐艦の航洋性の向上に新たな局面を拓いたのが船首楼の増設であり、1901年ドイツ帝国海軍が竣工させた新型駆逐艦(大型水雷艇)であるS90が船首楼を備えて良好な航洋性を得たと報じられ、この情報を得たイギリス海軍も、1904年竣工のE級で船首楼を付した[21]

またこの頃には、従来の駆逐艦で用いられていたレシプロ蒸気機関が性能的な限界に近づいていたことから、蒸気タービンの導入が進められ、イギリス海軍は1899年進水「ヴァイパー」および「コブラ」にパーソンズ直結タービンを搭載して、「ヴァイパー」は公試で36.869ノットを記録した[22]。イギリス海軍では、ドレッドノート級戦艦と高速駆逐艦による艦隊編成を構想して、1905年度計画では、戦艦に随伴しうる航洋性を備えた駆逐艦として蒸気タービンを備えたトライバル級(F級)(最大1,090トン)の建造に着手するとともに、飛躍的に大型化した「スウィフト」(常備2,170トン)を建造した。ただし「スウィフト」では、原型になったE級の約3倍まで建造費が高騰したことから、同型艦の建造は行われなかった[17]

イギリス駆逐艦はあくまで来襲水雷艦艇の撃破を第一としていたことから、兵装の面では艦砲を重視しており、魚雷はその次とされていた[19]。これに対し、ドイツ駆逐艦は逆に艦砲よりも魚雷装備を重視しており、水雷襲撃の際の被発見性を低減するために艦影も低く抑えられていた[23]。しかしその後、魚雷の性能向上に伴って、主力艦自身の速射砲で敵駆逐艦を撃退することは困難になり、駆逐艦の護衛がつけられるようになったことから、雷撃のまえにこの護衛艦を排除する必要が生じた[21]。このこともあり、第一次世界大戦の戦訓では、イギリス駆逐艦の強力な砲力は敵護衛艦艇の排除に役立ち、水雷襲撃の成功にも寄与するとされた[23]。戦中には、ドイツも15センチ砲を搭載した2,000トン級の大型駆逐艦の建造に着手したものの、終戦までに2隻(S-113・V-116)が竣工したのみであった[24]

第一次世界大戦は艦隊型駆逐艦の完成度を更に高めたが、同時に駆逐艦の用途を著しく拡張した[17]。ドイツ帝国海軍の無制限潜水艦作戦に対抗するために水中聴音機や爆雷を備えて対潜戦に対応し、また機雷敷設・掃海機能を備えて機雷戦にも対応した[17]。このように、小型のうえに高速で適当な兵装を持つ駆逐艦は、近代的な海上戦に付随して生起する様々な局面にも柔軟に対応できたことから、主力艦の護衛と水雷襲撃という固有の任務に加えて、高度の汎用性が要求されるようになった[17]

独海軍のS90。船首楼を備えて航洋性を向上させた。

英海軍の「スウィフト」。飛躍的に大型化した。

旧独海軍のS-113。大口径砲を備えた。

ヴェルサイユ体制下 (1920?30年代)

1919年ヴェルサイユ条約締結ののち、ドイツが第1次大戦中に建造した大型駆逐艦であるS-113・V-116は、賠償艦として、それぞれフランスとイタリアに引き渡された。また特にイタリア海軍は、地中海という限られた海域を主たる作戦海面とすることから、駆逐艦よりも大きいが高速軽快な偵察艦を建造してきていた[25]。これらを踏まえて、1920年代より、フランスはシャカル級、イタリアはナヴィガトーリ級として、従来よりも大きく大型・高性能化した駆逐艦の配備を開始した[26]

1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約による主力艦の保有制限に伴って、日本海軍は、その制限外である駆逐艦の強化を図ることでそれを補うことを構想し、画期的な重兵装と航洋性を両立させた特型駆逐艦を開発した[21]。その後、1930年ロンドン海軍軍縮会議によって巡洋艦にも保有制限が課されると、イギリス海軍は、シャカル級や特型を参考に、軽巡洋艦の任務の一部を肩代わりできるように砲熕火力を強化した駆逐艦として、1938年よりトライバル級の配備を開始した[27]。またアメリカ海軍も、特型に対抗して、ロンドン条約の制限枠を最大限に活かしたポーター級を開発し、1936年より配備を開始した[28]

一方、1930年代後半のイギリス海軍は、これらの大型・高速で強力な駆逐艦とは逆に、船団護衛を想定した小型・低速の駆逐艦の検討も着手していた。これによって開発されたのがハント級駆逐艦で、ポーランド侵攻の3ヶ月前、1939年6月に9隻が起工されたのを皮切りに建造が始まった[29]


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