[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ウマは反芻動物ではない上にウシやヒツジなどに比べて代謝が高く、それらと比較すると体重に対して約30パーセント以上多くの牧草を必要としたため、中東の古代国家ではウシやヒツジと同時に大量のウマを飼うことは困難だった[25]。ウマはその貴重さから食用として発達することはなく、この地域から馬肉に関する食のタブーが生まれたと考えられている[25]

一方、メソポタミアからみて北方の草原地帯ではウマに直接に騎乗する技術の改良が進められた。こうして紀元前1000年ごろ、広い草原地帯をヒツジ、ヤギなどの家畜とともに移動する遊牧という生活形態が、著しく効率化し、キンメリア人スキタイ人などの騎馬遊牧民が黒海北岸の南ロシア草原で活動した。騎馬・遊牧という生活形態もまたたくまに広まり、東ヨーロッパからモンゴル高原に至るまでの農耕に適さない広い地域で行われるようになった。彼ら遊牧民は日常的にウマと接し、ウマに乗る技術を発明することによって高度な移動・機動の能力を獲得し、ウマの上からを射る騎射が発明されるに至って騎馬は戦車に勝るとも劣らない軍事力となった。遊牧民ではないが、紀元前8世紀アッシリアは、騎射を行う弓騎兵を活用して世界帝国に発展した。中国では紀元前4世紀に北で遊牧民と境を接していた武霊王が胡服騎射を採用し、騎馬の風習は定住農耕民の間にも広まっていった。さらに騎乗者の足や腰を安定させるための(あぶみ)や(くら)が発明され、蹄鉄が普及して、非遊牧民の間でも、西ヨーロッパの騎士や日本の武士のような騎兵を専門とする戦士階級が生まれた。

15世紀から16世紀に進んだ火薬・銃の普及による軍事革命は騎士階級の没落を進めたが、騎兵の重要性は失われず、また物資の運搬にもウマは依然として欠かせなかった。各国は軍馬に適したウマを育成するために競馬を振興し、競馬を通じて馬種の改良が進められた。

やがて大航海時代に入り、白色人種はアメリカ大陸に到達した。彼らが手にする鉄器や火薬の威力、乗りこなす馬の機動力や威圧感、そして彼らが持ち込んだ天然痘などの伝染病はそれらを知りえなかったアメリカ先住民を恐怖に陥れ、白人による中米や南米の民族の征服は短期間で完了。結局、インカ帝国アステカ帝国など、独自の文明をもって栄えていた社会はほぼ壊滅させられる。しかしスー族など北米のインディアンの中には、馬の機動性をいち早く取り入れ、生活様式を向上させるものもあった。

20世紀に至り、内燃機関による自動車・戦車の実用化、また機関銃などを使った弾幕戦法の普及など、2度の大戦を経て軍事革新が進んで軍馬の重要性は急速に失われていったが、軍隊、警察においては儀典の場で活躍している。さらに競馬・乗馬は娯楽、スポーツとして親しまれ、世界では現在も数多くの馬が飼育されている。また近年では、世界最小のウマであるアメリカンミニチュアホースを盲導犬のウマ版と言える盲導馬として使用する試みも始まっている。その他、乗馬を通じ心を癒すホースセラピーも注目を浴びている。
日本の馬
縄文・弥生・古墳時代埴輪重要文化財)。

氷河期には日本列島はユーラシア大陸と地続きで、馬が存在していた。しかし氷河期が終わると日本列島は草原が減少し森林化が進み馬の生存に適さなくなり馬は絶滅した[26]

古墳時代になると、朝鮮半島南部から軍事的な要請から馬の輸入が開始された。284年(応神15年)には百済王から、阿直岐を使者として良馬2匹が献じられた。「当時は飼育方法を知らずに山に放ったので、その山を生駒山と号した」などの記録がある[27]

4世紀末の北部九州への輸入を皮切りに、5世紀後半には日本列島各地の遺跡から出土した馬具などによって馬の存在が確認されている[28]。日本での大規模な馬匹生産は、5世紀前半から中頃にかけて河内湖周辺で朝鮮半島からの渡来人によって行われたのが最初で[29]、5世紀後半には渡来人の移配とともに飼育好適地が多い東日本地域へ馬匹生産の移管が実施された[30]。この馬匹生産の移管は雄略朝期・大和政権の東日本への支配の強化を示すものであった[31]。486年(顕宗2年)には「天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、馬被野」(天下は泰平で…馬は野を被うほどだった)[32]古墳時代の埋葬馬大阪府四條畷市出土。大阪府立近つ飛鳥博物館展示。

5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の応神天皇の陪塚や仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、(くつわ)、鐙(あぶみ)などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。群馬県の白井北中道遺跡からは馬の足跡が4万個以上パックされた土層が確認されている。これは榛名山の噴火による堆積物で馬の足跡が遺存したもので、蹄の大きさから中型馬であると考えられている。

その後の古書や伝承には馬にまつわる記述がみられる。『日本書紀』にはアマテラスが岩戸に隠れたのはスサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込み、機織女が驚いて死んだためであるとのくだりがある。『古事記』では、スサノオの息子であるオオクニヌシ出雲国からでかける際に鞍と鐙を装した馬に乗っていたと書かれる。

東北日本の蝦夷へは、馬の飼育が伝わり、騎射による優れた狩猟技術が発達した。また飼育した馬をヤマト王権側に売っていた。また帰服し俘囚となった蝦夷からは飼育法の他、乗馬や騎射などの戦闘技術がもたらされた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:147 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef