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江戸時代初期に描かれた『江戸図屏風』には御鞭打といわれる皮竹刀を使った騎馬集団による軍事演習の様子が描かれている[41]。また、領主としての土着性が強かった初期の武士にとっては、馬が排出する馬糞は自己が経営する農地の肥料としても貴重なものであった。

武士は敵に噛みついたり蹴り飛ばすなど気性の荒い馬を好み、このような馬を乗りこなす者を豪勇としてもてはやしたことから、去勢しないまま飼育していた。
江戸時代武士の鎧と馬の鎧

これらの競馬の伝統は中世を通じて維持され、政治史にあわせた盛衰はあるものの江戸時代中期まで続いた。特に徳川家康徳川家光徳川吉宗らは武芸としての馬事を推奨し、江戸の高田に馬術の稽古場をつくった(高田馬場)。ただし騎乗が許されたのは一部の旗本以上の階級のみであった。

8世紀初頭に制定された大宝律令では馬寮(左馬寮・右馬寮)が設置された。また、8世紀の文武天皇の時代には、関東に大規模な御料牧場が設けられ、年間200 - 300頭規模の馬産が行なわれていた。御料牧場は、戦国時代に関東を制覇した北条氏政によって整備され、上総下総の広い地域にまたがっていた。これを監督していた千葉氏は後に豊臣氏に滅ぼされて新領主である徳川氏の直轄地域(千葉野、後の小金牧佐倉牧)となり、同氏が幕府を開いた江戸時代に入ると代官が設置されて最盛期には年間2000 - 3000頭規模の馬産を行った。これが明治時代の下総御料牧場の前身である。ただし牧場や馬産といっても、大陸の遊牧民、牧畜民によって発達し、現在も行なわれているような体系的なものではなく、大規模な敷地内に馬を半野生状態で放し飼いにして自由交配させ、よく育った馬を捕らえて献上するというやり方であった。この方法は、優れた馬ほど捕らえられ戦場に送り込まれることになり、劣った馬ほど牧場に残って子孫を残し、優れた馬ほど子孫を残しにくくなるため、現代の馬種改良とは正反対の方法だった[42]。このような手法で生産された馬は野駒と呼ばれた。一方、仙台や薩摩藩では、種馬として藩主の乗用馬が下賜され、管理された繁殖が行われた。こうして生産された馬は里馬と呼ばれた。

古い文書の記述を信用するのであれば、日本の馬は江戸期に小型化した。平将門の愛馬「求黒」が160 cm[注 16]もの大型馬で人を踏み殺したと言うのは誇張だとしても、平安期の名馬といわれる馬は概ね体高140 cm以上の馬格を有していた。奥州藤原氏が献上した名馬はみな体高150 cmで高幹[注 17]とされた。戦国時代まで馬の大きさの基準は概ねこの程度であったが[注 18]、江戸末期の御料牧場の繋養馬は平均して10-15 cmほど小型化していた[注 19]

改良が全く行われなかったわけではない。徳川家では東南アジア経由で外国産馬をしばしば輸入しており、これを「日本の馬とは違って体が大きく、おとなしい」と称賛している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}下北蠣崎氏は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、[要出典]薩摩島津貴久や、南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行ったと伝えられている[43]。江戸時代の将軍徳川吉宗や家綱は諸外国から種馬を輸入し品種改良しようとした[注 20]。しかし、全体としての馬産の方法論は前時代のままであり、継続的な選抜と淘汰による体系的な品種改良という手法は導入されていない。これを象徴する出来事として知られているのが、江戸時代にフランスからアラブ馬を贈られた一件である。1863(文久3)年、14代将軍徳川家茂の時代にフランスで流行病によってが全滅した際に、江戸幕府が代わりの蚕を援助した。この返礼として品種改良の一助になればとナポレオン3世からアラビア馬[注 21]16頭が贈呈された。しかし当時の幕府首脳にフランス側の意図を理解する者がおらず、珍貴な品扱いで全て家臣や諸侯等へ下賜してしまった[44][注 22][注 23]。明治に入ると、外国から多くの種馬が輸入され、日本の在来馬の改良に充てられた。歌川広重名所江戸百景」より。日本馬は蹄が硬く、明治期以前は未舗装道のため蹄鉄を必要とせず、専用のわらじを履いていた。

江戸期の太平の時代になると、軍馬としての馬の需要は減り、一方で市民経済の発展に伴って荷馬に用いられるものが増えてきた。(既に中世から荷馬として多く用いられていた→馬借)西洋とは異なり日本では馬車は発達せず、馬に直接荷を背負わせる方法が主流であった。また、農馬はの耕作や木材の搬出、副次的に馬糞を田畑への肥料とするため飼養された。なお、日本馬は蹄が硬いため蹄鉄を必要とせず、馬には専用のわらじ馬沓)を履かせていた。
近代

明治に入り、明治4年6月5日(1871年7月22日)に平民の乗馬が許可され[45]、民間での娯楽としての乗馬の道が開けた。日清戦争日露戦争以降には軍馬の改良をすすめるため軍馬資源保護法を制定し日本在来馬の禁止などの政策がとられ[46]、本格的な品種改良を伴う洋式競馬も創設された(詳しくは競馬の歴史 (日本)参照)。太平洋戦争後の経済復興期に日本国内の道路網の舗装が整備されて自動車が普及するまで、ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる最も一般的な実用家畜であり、最大時国内で農用馬だけで150万頭が飼育されていた。
戦後

1945年、連合国軍最高司令官総司令部指令により国による馬の施策、研究、団体の解散と再編が実施された。

太平洋戦争直後の1950年に飼育されていたウマは農用馬だけで100万頭を超すが、農業の機械化に伴って需要は急減していき、1960年代中頃には30万頭に、1975年には僅か42,000頭まで減った。2001年の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬で、農用馬は18,000頭にすぎない。※食肉用に肥育されるウマ(肥育馬)は、農用馬に分類されている。

2005年現在では日本在来馬は8種、約2,000頭のみとなった。なお、道路交通法上、馬が引く車および人の騎乗した馬は軽車両に分類される。


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