10世紀に武士が誕生すると、大鎧を着て騎射を行う武芸とされ、朝廷や国衙による軍事動因や治安活動は、この武士の騎馬弓射の戦闘力に依存するようになった。またに古代に於いて直刀だった刀剣が、斬撃に適するよう、刃に反りがつけられる進化を促したともされている。彼ら平安時代半ばから鎌倉時代にかけての武士の馬術への深い関心は、軍記物語である『平家物語』に記された一ノ谷の戦いで馬に乗ったまま崖を駆け下りた源義経の鵯越などの逸話によって多くの日本人によく知られている。馬事はふたたび武術としての性格をもちはじめ、後にたしなみとして騎射、流鏑馬、犬追物などが盛んになり、「競馬」はやがて鎌倉競馬
として厳格に体系化された。武士の騎乗戦闘の様子や騎乗抜刀の様子は数多くの絵画史料で見ることが出来る。『蒙古襲来絵詞』前巻絵五 白石通泰の手勢『蒙古襲来絵詞』には白石通泰勢百余騎の騎馬隊が騎射をしながら敵陣に突進する様子が描かれている[40]。室町時代以降大坪流馬術の「乗用三段」に見られる騎馬隊で突撃して敵陣を切り崩すような集団騎馬戦術が発達していった。大坪流馬術は戦国時代・江戸時代を通じて武士が学ぶ軍事的素養となっていた。江戸時代初期に描かれた『江戸図屏風』には御鞭打といわれる皮竹刀を使った騎馬集団による軍事演習の様子が描かれている[41]。また、領主としての土着性が強かった初期の武士にとっては、馬が排出する馬糞は自己が経営する農地の肥料としても貴重なものであった。
武士は敵に噛みついたり蹴り飛ばすなど気性の荒い馬を好み、このような馬を乗りこなす者を豪勇としてもてはやしたことから、去勢しないまま飼育していた。
江戸時代武士の鎧と馬の鎧
これらの競馬の伝統は中世を通じて維持され、政治史にあわせた盛衰はあるものの江戸時代中期まで続いた。特に徳川家康、徳川家光、徳川吉宗らは武芸としての馬事を推奨し、江戸の高田に馬術の稽古場をつくった(高田馬場)。ただし騎乗が許されたのは一部の旗本以上の階級のみであった。
8世紀初頭に制定された大宝律令では馬寮(左馬寮・右馬寮)が設置された。また、8世紀の文武天皇の時代には、関東に大規模な御料牧場が設けられ、年間200 - 300頭規模の馬産が行なわれていた。御料牧場は、戦国時代に関東を制覇した北条氏政によって整備され、上総・下総の広い地域にまたがっていた。これを監督していた千葉氏は後に豊臣氏に滅ぼされて新領主である徳川氏の直轄地域(千葉野、後の小金牧・佐倉牧)となり、同氏が幕府を開いた江戸時代に入ると代官が設置されて最盛期には年間2000 - 3000頭規模の馬産を行った。これが明治時代の下総御料牧場の前身である。ただし牧場や馬産といっても、大陸の遊牧民、牧畜民によって発達し、現在も行なわれているような体系的なものではなく、大規模な敷地内に馬を半野生状態で放し飼いにして自由交配させ、よく育った馬を捕らえて献上するというやり方であった。この方法は、優れた馬ほど捕らえられ戦場に送り込まれることになり、劣った馬ほど牧場に残って子孫を残し、優れた馬ほど子孫を残しにくくなるため、現代の馬種改良とは正反対の方法だった[42]。このような手法で生産された馬は野駒と呼ばれた。一方、仙台や薩摩藩では、種馬として藩主の乗用馬が下賜され、管理された繁殖が行われた。こうして生産された馬は里馬と呼ばれた。
古い文書の記述を信用するのであれば、日本の馬は江戸期に小型化した。平将門の愛馬「求黒」が160 cm[注 16]もの大型馬で人を踏み殺したと言うのは誇張だとしても、平安期の名馬といわれる馬は概ね体高140 cm以上の馬格を有していた。奥州藤原氏が献上した名馬はみな体高150 cmで高幹[注 17]とされた。戦国時代まで馬の大きさの基準は概ねこの程度であったが[注 18]、江戸末期の御料牧場の繋養馬は平均して10-15 cmほど小型化していた[注 19]。
改良が全く行われなかったわけではない。徳川家では東南アジア経由で外国産馬をしばしば輸入しており、これを「日本の馬とは違って体が大きく、おとなしい」と称賛している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}下北の蠣崎氏は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、[要出典]薩摩の島津貴久や、南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行ったと伝えられている[43]。江戸時代の将軍徳川吉宗や家綱は諸外国から種馬を輸入し品種改良しようとした[注 20]。しかし、全体としての馬産の方法論は前時代のままであり、継続的な選抜と淘汰による体系的な品種改良という手法は導入されていない。これを象徴する出来事として知られているのが、江戸時代にフランスからアラブ馬を贈られた一件である。1863(文久3)年、14代将軍徳川家茂の時代にフランスで流行病によって蚕が全滅した際に、江戸幕府が代わりの蚕を援助した。この返礼として品種改良の一助になればとナポレオン3世からアラビア馬[注 21]16頭が贈呈された。しかし当時の幕府首脳にフランス側の意図を理解する者がおらず、珍貴な品扱いで全て家臣や諸侯等へ下賜してしまった[44][注 22][注 23]。