5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の応神天皇の陪塚や仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、轡(くつわ)、鐙(あぶみ)などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。群馬県の白井北中道遺跡からは馬の足跡が4万個以上パックされた土層が確認されている。これは榛名山の噴火による堆積物で馬の足跡が遺存したもので、蹄の大きさから中型馬であると考えられている。
その後の古書や伝承には馬にまつわる記述がみられる。『日本書紀』にはアマテラスが岩戸に隠れたのはスサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込み、機織女が驚いて死んだためであるとのくだりがある。『古事記』では、スサノオの息子であるオオクニヌシが出雲国からでかける際に鞍と鐙を装した馬に乗っていたと書かれる。
東北日本の蝦夷へは、馬の飼育が伝わり、騎射による優れた狩猟技術が発達した。また飼育した馬をヤマト王権側に売っていた。また帰服し俘囚となった蝦夷からは飼育法の他、乗馬や騎射などの戦闘技術がもたらされた。 646年の大化の改新による一連の制度の整備によって、駅馬・伝馬といった通信手段としての乗用馬が設立され、各地に馬牧も開かれた(ただし去勢の技術は導入されなかった)。当時律令制のモデルであった大陸の唐朝は、遊牧民出身の軍事集団が政権中核の貴族層を構成し、その軍事制度も遊牧民の軍制を色濃く継承していたため、律令制の導入は最先端の軍事技術としての馬文化(軍馬)の導入という性格も有していた。壬申の乱では置始兎が率いて急行した千余騎や、勇士来目らの騎馬突撃など、騎馬隊の活躍が目立った[33]。 7世紀に造られた藤原宮跡では、酷使により関節部の癒合・肥大化をきたした馬の骨が見つかった。宮の造営には多数の馬が用いられたようである[34]。藤原宮跡の骨の中には、肉を取るための削り痕が残っているものと、そうした痕跡がないものがあり、部分的に食用にされたと考えられる[35]。天武天皇4年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令以後[36]、食用を禁止する命令がたびたび下されたが、いずれも一時的な禁令で、あまり行き渡らなかったようである[37]。 668年(天智7年)には、「干時近江国講武 又多置牧 而放馬」(近江国は武力を整え、牧人を多く置き、馬を放牧した)とある[38]。 平安時代には、いわゆる競馬が行われていたというはっきりとした記録があり、盛んに行われていた。「競馬式(こまくらべ)」、「きおい馬」、「くらべ馬」、「競馳馬」等と称して、単に馬を走らせて競う走馬、弓を射る騎射などが行なわれ、勝者と敗者の間では物品をやり取りする賭け行為が行われる場合もあった。この競馬の起源は尚武(武術の研鑽)にあったと考えられるが[39]、平安時代の貴族社会では、もっぱら神事などの行事ごと、娯楽へと変遷したと考えられる。宮廷儀礼として様式化された「競馬」はやがて神社にも伝わり、祭礼としての競馬も営まれるようになった。このなかでは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で毎年五月に行われる賀茂競馬 10世紀に武士が誕生すると、大鎧を着て騎射を行う武芸とされ、朝廷や国衙による軍事動因や治安活動は、この武士の騎馬弓射の戦闘力に依存するようになった。またに古代に於いて直刀だった刀剣が、斬撃に適するよう、刃に反りがつけられる進化を促したともされている。彼ら平安時代半ばから鎌倉時代にかけての武士の馬術への深い関心は、軍記物語である『平家物語』に記された一ノ谷の戦いで馬に乗ったまま崖を駆け下りた源義経の鵯越などの逸話によって多くの日本人によく知られている。馬事はふたたび武術としての性格をもちはじめ、後にたしなみとして騎射、流鏑馬、犬追物などが盛んになり、「競馬」はやがて鎌倉競馬 『蒙古襲来絵詞』には白石通泰勢百余騎の騎馬隊が騎射をしながら敵陣に突進する様子が描かれている[40]。室町時代以降大坪流馬術の「乗用三段」に見られる騎馬隊で突撃して敵陣を切り崩すような集団騎馬戦術が発達していった。
飛鳥・奈良時代
平安時代
鎌倉時代