馬超
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^ この際、馬騰・韓遂それぞれの子が人質に出された[9]。両者の具体的な紛争時期は明らかでないが、白亮は、李?と不仲になった馬騰に韓遂が味方した興平元年(194年)から、鍾?が司隷校尉に任じられた建安2年(197年)までの間とする[10]
^ 『三国志』張既伝では、馬騰は張既の説得により鍾?に協力しているが、鍾?伝注引司馬彪『戦略』では、初め郭援らに与していた馬騰を説き伏せたのは傅幹である。
^ ?徳が郭援の首を取ったが、首級を確かめる段階になるまでそのことは判明しなかった[11]
^ これは馬超の勇猛さを表すものであり、清代に編纂された『日下旧聞考(中国語版)』においても、強勇の例として引かれている[12]銚期が戦闘時に傷を頭巾で覆い、ついに敵軍を大破したことは『後漢書』および『東観漢記』に見える[13]
^ 白亮は、曹操が馬超に与えたのは実権のない官職と見なしている[10]
^ 陳亮は、曹操が馬超を召しおおせなかったことを難じ、以下のように主張する。「馬超が応じなかったのは、父子ともに関西におり、単身で赴くのを厭うたから、そして与えられた官職のあまりの低さに、任官を潔しとしなかったからである。馬騰を召した後、馬超を前将軍に任じて手厚く迎え、精兵を統べさせてやり、それから弟たちに馬騰の部曲を領らしめるならば、馬超の果敢さもあって、喜び勇んで功名を立てようから、どうして応じないことがあろうか」[14]
^ 『三国志』張既伝によると、入朝に対して馬騰はやや消極的である。張既の説得により、馬騰は部曲を解散して入朝することを承諾したものの、行動を先延ばしにしていた。その様子に変心を恐れた張既の入念な手配によって、やむを得ず東に向かっている。
^ 宗族が実質的に曹操の質任となったことを意味する[16]。己の宗族や子弟を人質として?に遣ることで服属を示す例は、李典臧覇にも見られる[17][18]
^ 胡三省曰く、「曹操が関西を捨てて張魯を遠征するというのは、伐?取虞の計だ。思うに、馬超・韓遂を討つ名分がないから、まず張魯を攻めるふりをして背かせ、それから侵攻しただけである」[21]。朱子彦はこの時点での馬超の立場について論じている。馬超がもし馬騰らの身を顧みるならば、領地を手放して曹操に臣服せざるを得ないが、継いだ既得権益を守るべく?にいる親族を見放すならば、忠孝の道を失って曹操に道義的優位を与えることになる[22]
^ 弘農に至った曹操は「ここは西道の要衝である」と言い、賈逵を弘農太守に任じた[23]
^ 杜畿が太守を務める河東郡だけは動揺しなかった[24]
^ 劉雄鳴は曹操の歓迎を受けたが、部下たちが降伏を拒んだため曹操から離反した。夏侯淵に討たれて漢中に逃走した後、張魯が敗れると再び曹操に降った[25]。「劉雄」という表記も見られる[26]
^ この時の難民の中には、三輔から逃れてきた扈累寒貧といった隠士らもいた[29]
^ 軍勢が敗れるのを目の当たりにし、また曹操も行方知れずだったため、諸将は皆危惧していた。曹操を見て悲喜こもごもの者、あるいは涙を流す者がいる中、曹操は大笑いして、「今日は小僧めにあやうく痛い目に遭わせられるところだった」と語ったという[32]
^ 『曹?伝』によると、馬超の騎兵による度重なる襲撃と地盤の悪さにより、曹操軍は渡河はおろか、陣営や防塁を築くこともできずにいた。そこで婁圭の案に従い、砂を水で凍らせて城を建てたことで、渭水を渡りおおせたという。裴松之はこの逸話を否定している[32]
^ 許?の武勇を聞き知っていた馬超は、曹操の従騎が許?ではないかと疑い、「公(曹操)の虎侯は、どちらにあるか」と尋ねている[31]司馬光は、許?が馬超を防いだことについて、「〔単馬会語の〕時に馬超は韓遂と共にいなかったために韓遂を疑ったのだから、この話はでたらめだ」と述べる[36]。また『太平御覧』に引く『江表伝』によると、馬超は6斛(斛は体積の単位。1斛=10斗[37])の米袋を馬にぶら下げて駆け、米袋の重さで曹操の体重を測っていた(曹操を捕える練習をしていた)。それを知った曹操は長いこと嘆息して、「狡猾な賊に騙されるところだった」と語ったという[38]。また盧弼が言うには、「韓遂・馬超はそれぞれ別に単馬会語に臨み、〔曹操は〕馬超と話す際にはその武勇を考慮して、許?を随えていたのかもしれない」[39]
^ 韓遂との交馬語において、曹操はあえて軍事と関わりのない思い出話をした。会談を終えた韓遂に「公は何と言ったのか」と馬超が問うと、韓遂は「何ということはない」と答えた。これについて盧弼は、「曹操が韓遂と話した時、馬超はやや距離をとっていて、会話が聞こえなかったのかもしれない」と推測している[40]。また別の日には、韓遂自身が隠蔽したと他の諸将に思わせるべく、多数の改竄が残る書状を韓遂のもとに送りつけた[33]
^ 安定で包囲された楊秋は曹操に降伏して許され、復位するとともに住民の慰撫を任された[33]
^ 竇武の孫である竇輔はこの戦いに従軍し、飛んできた矢に当たって戦死している[42]
^ この年代は『三国志』楊阜伝の記載によるものである。同書董卓伝には「馬超が漢陽に拠有し、馬騰は連座して三族皆殺しとなった」とあり、族滅以前に再起している。一方、武帝紀では建安18年(213年)に馬超が再起している。『後漢書』では建安17年の族滅以後に再起している[43]。司馬光は楊阜伝を誤りとして、武帝紀の年代を採用している[44]
^ 漢陽で馬超が任養らに迎え入れられたことで、閻温は冀城に走った[46]。なお当郡では、姜・閻・任・趙の四姓が有力だった[27]
^ 韋康を推挙したのは荀ケである[47]
^ 『後漢書』および『資治通鑑』では、馬騰らが誅殺されたのは建安17年5月癸未の日と記されているが、当月の朔日は癸未ではなく壬辰のはずである[50][51]
^ 馬超は「足下は命のことを考えないのか」、「城内の旧知で、私と意を同じくする者はいるか」などと問うたが、閻温からの答えは得られず、最後には「主君に仕えるということに、死はあれど二心はない。卿(あなた)は長者(徳のある人物)に不義の言を出さしめんとしている」と返された。
^ 閻温に対する陳寿評にある解揚の逸話は、『史記』および『春秋左氏伝』に記載がある。を攻めた際、は宋を降伏させないために楚を欺くことを画策し、壮士の解揚がその君命を帯びたが、その道中で捉えられた。楚王は、宋に対し降伏勧告をするよう解揚に強いた。解揚はついにその要求に応じたが、車に乗せられて城下に着くや「晋の援軍が来る」と呼ばわった。約束に背き信義を損なったことを咎める楚王に、解揚は忠義を持ち出して答えた。そして死刑に臨むにあたり、忠義を文字通り死守せんとする己の意気を訴えた。臣下たちの反対を押し切り、楚王は解揚を許した[52]
^ 皇甫謐『列女伝』趙昂妻異伝には「馬超が約束に背き韋康を殺害した」とある[5]。なお『列女伝』のような著述には留意点がある。兪樟華・婁欣星が述べるには、古代の雑史に記された女性の伝記は複数の共通点を持つ。まず、男性中心社会において、国家存続や夫への貢献、貞節の固守などのような、婦徳やそれに繋がる才覚を発揮した女性(母、妻、娘)が特筆される。次に、当時の社会情勢や女性の生活状況が示されると同時に、作者の願望および理想の投影もまた含まれる。そして、逸話の典拠は正史内の記載を除けば、主に文芸作品、野史、世間の噂などであるため、官吏に関する一般的な列伝と比較して、女性(特に皇族以外の階級に属する者)を主とする列伝の信憑性は低くなる[53]。熊明は、皇甫謐の筆致について、真実性や信憑性には注意を払わず、該当する人物の性格を的確に示す情報やそれに関する都合の良い資料を取捨選択し、さらに創作も織り込むさまは小説作法じみていると分析し、その叙述方式や微細な描写などから、『列女伝』をはじめとする皇甫謐の雑伝作品は史書というより小説のようだと論じている[54]
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