馬超
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そして賈?の進言に従い、土地の割譲と人質の引き渡しの要求に偽って応じ、会談の場を設けた上、そこで賈?の離間の策を用いた[33][35]。単馬会語の際、馬超は己の武勇を恃みに曹操を捕らえようとしたが、護衛の許?がいたため実行できなかった[注釈 19]。曹操は両軍間の交流を利用して、韓遂が内通しているように見せかけたため、馬超らは韓遂に疑念を持ち、不和となった[注釈 20]。その隙を見逃さなかった曹操に攻撃された関中軍は大敗を喫し、馬超は安定に至ったのち涼州へと逃れた[3][注釈 21]

曹操は安定まで追撃したものの、蘇伯と田銀が河間で反乱を起こし幽州冀州を扇動していたため[41]、引き揚げようとした。涼州参軍楊阜は馬超の武勇と異民族への影響力について警戒を促し、「厳重に備えておかねば、隴上の諸郡は国家のものでなくなります」と進言した。曹操はもっともだと考えたが、やむなく帰還の途に就いた。また潼関の戦いにおける曹操軍の戦死者は5桁にのぼり、曹操を悔やませた[19][注釈 22]
再起と敗北を重ねて姜叙の母を殺す馬超(歌川国芳画)

建安17年(212年[注釈 23]1月、馬超が諸戎(西方の異民族ら)の渠帥を率いて隴上で蜂起すると、漢陽郡郡治である冀県[45]を除く全ての郡県が馬超に呼応した[注釈 24]。冀城を治める涼州刺史の韋康[注釈 25]は、馬超軍の包囲下に置かれながら8月まで抵抗を続けていたが、助けは来なかった[48]

5月、馬超の反乱に連座する形で、父の馬騰を含めた三族が誅殺された[49][注釈 26]

涼州別駕の閻温は、包囲網を掻い潜って夏侯淵に援軍を要請したものの、その足取りを発見した馬超軍に追われ、捕縛された。引き出された閻温に対し、馬超はその縛めを解いて、「今や勝敗は歴然としている。足下(あなた)は孤城のために援軍を求めたが、囚われの身となっている。どこに義を成そうというのか? もし私の言に従うならば、城に戻り、東から救援は来ないと伝えるように。これぞ禍い転じて福と為すというもの。さもなくば、ただちに殺す」と言った。偽って要求を受け入れた閻温は、車に乗せられて帰城すると、「大軍が3日のうちに来る。頑張れ!」と叫んだ[注釈 27]。その後、懐柔に失敗した馬超は閻温を殺した[46][注釈 28]

閻温の死をきっかけに、韋康は太守ともども降伏の意思を抱くようになった。楊阜は徹底抗戦を訴えたものの、韋康はついに講和を求めて開城した。馬超は入城すると、援軍に来ていた張魯の大将である楊昂に韋康と太守を殺させた[48][注釈 29]。そして冀城を占拠し、征西将軍・并州牧・督涼州軍事を自称した[15]。また遅れて救援にやってきた夏侯淵[注釈 30]を迎撃して優勢に立つだけでなく、?県?族を呼応させて敗走させたほか[26]百頃?の千万・興国?の阿貴らを味方につけ、勢力を盛り返した[58][注釈 31]

復讐の機を窺っていた楊阜は、歴城(漢陽郡西県[60])を訪れた折、撫夷将軍であり軍権を擁する姜叙の無反応ぶりを趙盾に比して責め、反乱を仄めかした[注釈 32]。楊阜の悲憤を見た姜叙の母は、楊阜の計画に加わるよう息子をけしかけた[5][48]。この計画には韋康の旧臣である趙昂もまた加わったが、息子の趙月が馬超の人質であることを案じると、妻の王異は「忠義こそが立身の大本です。君父の恥を雪ぐにあたっては、命を差し出すのも瑣末なこと。ましてや子ども1人のことなど気にかけるものではありません」と叱咤したという[5]

9月、楊阜・姜叙が鹵城[61]において反旗を翻した。楊阜らと結んでいた趙衢・梁寛らは、馬超を欺いて鎮圧に向かわせた後、冀城を占拠して門を閉じ、馬超の妻子をことごとく殺して晒し首にした[注釈 33]。馬超は初め鹵城を攻めたが、歴城に目標を変えた。そこで捕らえた姜叙の母に「お前は父に背いた逆子(ぎゃくし。不孝者)、主君を殺した桀賊(凶暴な賊)であり[注釈 34]、天地がどうしてお前を久しく容れられようか。それでいて早く死なずにいるとは、よくも人に顔向けできるものだ!」と罵倒され、激怒した馬超は姜叙の母と子を斬った[5][48][注釈 35]。戦いの最中、馬超は楊阜に重傷を負わせ、その兄弟7人を戦死させたものの、ついには漢中の張魯を頼って落ち延びていった。

その後、馬超は張魯に何度も兵を借りて失地回復を試みたが、不首尾に終わった。趙昂らが立て籠もる祁山を馬超が包囲した際、姜叙らから救援依頼を受けた夏侯淵は、曹操の指令を待っていれば姜叙たちは負けるだろうと判断し、進軍した。包囲から30日が経過して援軍が到着すると、馬超はその先行部隊を率いる張?を羌?数千人と共に迎え撃ったものの、結局交戦しないまま逃げ、またこの時、人質の趙月を殺した[5][26]

張魯は馬超を都講祭酒[注釈 36]に任じるだけでなく、さらには自分の娘を嫁がせようとしたが、ある臣下に「自らの親を愛せない者が、どうして他人を愛せましょうか」と諫められ、とりやめた[注釈 37]。また漢中には、潼関の戦いにおける馬超の敗北を機に、馬超の妾の弟である董?が三輔から移住していた。元日に董?が馬超を訪ねてお祝いを述べると、馬超は胸を叩いて吐血し、「家族が皆、1日にして命を落としたというのに、今われわれ二人で何を祝えるというのか!」と嘆いた[3]
劉備への帰服

建安19年(214年)、張魯に不満を抱き、内心鬱々としていた馬超は、成都を包囲していた劉備に密書を送り、降伏を申し入れた[15]。また張魯配下の楊白らからの妬みもあり[注釈 38]、馬超は妾の董氏と子の馬秋を張魯のもとに留めたまま、武都から?族の居住地を経て益州へと出奔した[3][注釈 39]

馬超の来降を聞いた劉備は「益州を手に入れたぞ」と喜び、すぐさま李恢を派遣して馬超を迎えとらせ、兵を補充した[3][71]。劉備が馬超の軍兵を成都城の北側に駐屯させると、恐れをなした劉璋は馬超到来から10日足らずで降伏し、蜀は劉備の手中に入った[3][注釈 40]。馬超は劉備により平西将軍に任命され、臨沮を治め、都亭侯に再び封じられた[15]。この時、劉備の爪牙(武の重鎮)として、関羽張飛と共に名が挙げられている[72]劉備の入蜀)。

馬超の帰順を知った関羽は、馬超が誰に比肩するかを諸葛亮に書簡で問うたが、関羽の自尊心の高さを知っていた諸葛亮の「益徳(張飛)には比肩しますが、髯[注釈 41]には及びません」という返事を見て大いに喜び、来客に見せびらかした[73]

建安22年(217年)、馬超は漢中攻略戦において張飛・呉蘭雷銅らと作戦を共にし、沮道を経て下弁に進出した[48][注釈 42]。これに応じて、曹操は曹洪曹休曹真らを派遣した[77][注釈 43]。下弁の東南にある固山[78]に駐屯する張飛の意図を看破した曹休は、呉蘭を攻撃して撃破した。建安23年(218年)3月、陰平?の強端が呉蘭を殺し、馬超は張飛ともども漢中へ撤退した[33]

建安24年(219年)、劉備を漢中王に推挙した群臣たちの筆頭に馬超の名がある[72]


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