馬英九
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2008年1月12日、総統選挙の前哨戦とされる第七回中華民国立法委員選挙では、二審で無罪を勝ち取った馬率いる国民党が経済政策の失敗を問われた民進党に圧勝し、単独過半数を確保した。

総統選挙では、民進党の謝長廷陣営は1977年に取得したグリーンカードの所持、一族による政治献疑惑、黒社会との関係などを主張するネガティブキャンペーンを展開した。対する馬陣営は「ロングステイ」と銘打って台湾各地の農村地帯を訪れて回り、外省人ながら台湾語による会話を行ったり、客家として客家語による演説を行うなど有権者と直接触れ合う機会を増やす事で対応した。

同年3月22日に総統選挙が実施され、謝長廷の544万5239票(41.55%)に対して765万8724票(58.45%)を獲得して当選が決定した。これは当時史上最多の得票数だった[6][7]。2008年5月20日、第12代中華民国総統に就任、これにより中華民国史上初めて野党となっていた国民党は8年ぶりに政権を奪還した。中国側は当選を歓迎しつつも、短距離ミサイルの増設など硬軟織り交ぜた姿勢を示した[8]
中台関係の改善[ソースを編集]2008年、COMPUTEX TAIPEI開会式にて

総統となった事で中台関係の雪解けが期待され、台湾国内でも毛沢東のペーパーウエートが発売され[9]、中国国内でも同年に制作された国策映画の建国大業?介石の愛国的一面が描かれたことに?介石の孫で当時国民党副主席の?孝厳が「客観的な歴史評価」と称賛[10] して国民党本部で毛沢東の孫と面会[11] するなど中台の友好ムードが高まっていった。

中台関係の停滞と世界金融危機で低迷していた景気の回復などを期待して、当選直後に台湾ドルが10年ぶり高値を付けた[12]。本人も政権発足後から直ちに中台関係の改善と経済政策の重点化を掲げて、前政権時代に制限されていた台湾企業の中国進出を緩和する意向なども示した[13]2009年7月26日に行われた国民党の主席選挙にて28万5354票(得票率93.8%)を得て当選し、同年10月17日に正式に第6代主席に就任した[14][15]台湾経済の回復を進め、政権初期の高支持率に繋がった。
台風被害と支持率の低下[ソースを編集]詳細は「平成21年台風第8号」を参照

2009年8月、台風8号が台湾を直撃するという過去最悪の台風による災害が起き、500名以上の死傷者が発生する事態となった。この際に政府の被災地での救援活動が遅れ、台湾国民からの厳しい批判にさらされた[16]。救援活動の不手際を認め、総統職の退任は否定したが、責任問題の追及には同意した[16]。被災者が避難生活を送る寺院を訪れた際には、被災者の一人が「総統と劉兆玄(行政院長)は今すぐ辞任すべきだ」と叫ぶと、会場から大きな拍手が沸いた[17]

2009年12月に行われた台湾の統一地方選挙では、災害への対応の悪さに有権者の不信感が広がったこともあり、国民党は県長ポストを現有の14ポスト(国民党系無所属も含む)から二つ減らす結果に終わった[18]。翌2010年1月に行われた立法委員補欠選挙でも国民党が改選3選挙区の議席をすべて失う結果に終わった。前述の災害への対応の悪さに加え、課題として掲げていた経済成長も米国産牛肉の輸入解禁を合意した事などが批判された[19]。2月27日投開票の立法委員補欠選挙でも改選4議席のうち国民党は花蓮県(全区)の1議席しか獲得できず、対する民進党は強固な地盤である嘉義県(2区)、新竹県(全区)、桃園県(3区)を獲得し、逆風が収まらない状況が続いた[20][21]
体制の立て直し[ソースを編集]

2010年以降は政権の立て直しを図り、引き続き中国との関係改善と経済成長を目指した政策を進め、2010年に台湾経済は10%強の成長率を記録、欧州債務危機で世界経済が混乱した2011年にも4%の成長率を達成した。また中台関係の改善を基調としながらも、「三不」(台中統一・台湾独立・武力行使のいずれも行わない)をスローガンにバランスを取った姿勢を見せ、親中反中のいずれにも立たない中立派の支持を勝ち取った。堅調な経済・外交政策で一定の支持を回復させ、2010年11月に行われた直轄市(台北市、新北市台中市台南市高雄市)の市長選挙では、依然として民進党に押されつつも台北市・新北市・台中市の三都市で勝利して現有勢力を維持した[22]
二期目[ソースを編集]2012年総統選時の馬陣営の集会(2012年1月7日)詳細は「2012年中華民国総統選挙」を参照

2012年、一期目の総統任期終了を踏まえて、同年の総統選挙に再選を目指して出馬する意向を表明した。同年から経済成長が鈍化していた事や、国民党から分派した親民党から出馬した宋楚瑜に票が流れる可能性などから、総統選挙では民進党の蔡英文と終盤まで激しい選挙戦を繰り広げた。結果として懸念されていた宋楚瑜が惨敗を喫した事などから旧来の支持勢力を纏め上げ、51.60%を得票して総統に再選された[23][24][25]。同日に第八回中華民国立法委員選挙も行われ、僅かに議席を減らしたものの過半数を維持してこちらも国民党が勝利を収めた。再選後の内閣では民進党を離党した楊秋興が政権入りしている。

2012年5月20日、第13代中華民国総統に就任(2期目)[26] し、任期満了となる2016年5月20日に退任した。
退任後[ソースを編集]

2017年3月14日、総統在任中の2013年当時国民党内で対立関係にあった王金平立法院長の失脚を狙い、柯建銘(中国語版)との電話を盗聴して検事総長から報告を受けた捜査情報を漏らしたとして、通信保障監察法違反(秘密漏洩)などの疑いで在宅起訴された[27]。同年8月25日の地裁判決では総統の権限の範囲内だとして無罪判決となったが[28]、翌2018年5月15日、高裁にあたる台湾高等法院は「職権を乱用した」などとして一審無罪判決を破棄し懲役4カ月の有罪を言い渡した[29]。最高裁にあたる最高法院は高裁に差し戻しの判断を下し、2019年7月12日、台湾高等法院は有罪判決を破棄し無罪が確定した[30]

2018年7月10日には国民党主席時代に党営のテレビ局などを不当に安い価格で売却し約270億円の損害を党に与えたとして特別背任などの罪で在宅起訴された[31]
政策・主張[ソースを編集]

1990年代前半、総統選挙を直接選挙にするか委任選出にするかで国民党内で議論となったとき、一貫して「委任選出制」を主張、直接選挙制に反対し、民主化前の国民党独裁政権が言論・思想の自由を弾圧する法的根拠になっていた「刑法第100条廃止」が議論された際にも反対し、2006年末にはアメリカの雑誌のインタビューで「終極的統一を目指す」と発言するなど保守派の人物と見られてきた。

馬は二・二八事件の犠牲者との「和解」をアピールする一方、二・二八事件に関与した?介石の再評価も進めており、陳水扁前総統は「?介石は台湾人を弾圧した独裁者」と批判し、?介石をたたえた「中正記念堂」の名称を変更したが、馬は政権交代後すぐに元に戻すことを決めており、二・二八事件の犠牲者遺族から不信感を抱かれている。
対中政策[ソースを編集]

自身の出生地でもある香港を3度訪問しており、香港行政長官董建華香港礼賓府に馬を招いた。董長官は、返還前に海外へ移住した香港人が戻って来ていること、外資系企業の投資も増えていることなどを理由に挙げて「一国二制度は成功している」と説明し、友好的な態度をアピールした。4日間の滞在中、容姿端麗な馬がホテル周辺を早朝ジョギングする姿が話題となり、「香港にも市民の選んだ市長を」とあこがれる傾向も見られた。ところが、2005年1月には入境を拒否された。馬は香港大学での講演を要請されて香港訪問を申請したものの、特区政府はビザを発給しなかった。当時、全国人民代表大会の開幕を目前に中央政府は「反分裂国家法」の制定準備を進めていた。この法律には台湾独立を封じる狙いがあり、馬がこれに反対する論説を発表したため、中央政府の不評を買って香港入境を差し止められたと推測されたが、このとき特区政府は子細を明らかにせず、あいまいな態度が非難を浴びた。

総統選挙では「三不」(台中統一・台湾独立・武力行使のいずれも行わない)をスローガンに掲げていた。しかし、総統に就任した後には「統一という選択肢を排除するものではない」と発言した事もある[32]

総統選挙中の2008年3月18日チベットで発生した大規模暴動について中国当局を批判し、自らが総統に当選した際には北京オリンピックをボイコットする可能性を示唆した。また党綱領から「統一」の文字を削除して「台湾」の文字を新しく盛り込み[33]、党規約に「台湾主体」を明記している[34]


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