馬上槍試合
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このため大陸領土においてはトーナメントを禁止しておらず、彼の3人の息子(若ヘンリーリチャードジョフロワ)は非常にこの競技を好んでいた。但し、1186年にジョフロワがパリでの試合で亡くなると、盟友の死を悼んだフランス王フィリップ2世はその後、息子のルイ8世にいかなる試合への出場も禁止している。

1192年以降は、イングランドで再びトーナメントが許可された。リチャード1世は6箇所の開催許可地を選定し開催に対して認可料を徴収した。しかし、ジョンヘンリー3世は気まぐれな禁止令を出したため、貴族たちは困惑し競技の人気は低下した。フランスにおいては、1260年にルイ9世(聖王)が王領におけるトーナメントを禁止し、彼の子孫は概ね禁令を継続した。
ボホート、チロシニア、都市の祭りリバモアで催された馬上槍試合の再現

当時、トーナメントに似た各種の催しが行われ、しばしばトーナメントと混同されている。最も一般的なのはボホートで、「遊びのトーナメント」であり非公式に色々な場合に行われた。1171年に書かれたウィリアム・フィッツ・スティーブンの『トマス・ベケットの生涯』ではロンドンの若者達が定期的に行っていたことが記録されている。ボホートは旅の騎士や従者の一団の間、あるは行軍中の軍隊等でも行われた。宮廷の催しの一部として行われることもある。主な特徴は、武器と防具を限定したことと馬術を重視したことである。

チロシニアはフライジング司教オットーが、1127年にヴュルツブルクで開催された競技に言及したのが最初である。これは新たに騎士に叙任された若者(チローヌ)を対象に開かれた。若い騎士は経験が少ないため古参の騎士に簡単にあしらわれる事が多かったが、チロシニアに参加することで大きな危険を冒さずに経験をつむことができた。王族や上級貴族の若者が騎士に叙任された時(通常、12から20人の若者が同時に騎士に叙任される)に開かれることが多い。

同種の催しとして都市トーナメントが都市の富裕な若者の間で開かれた。これらは単なるボホートというより貴族のトーナメントの模倣である。この種のトーナメントで最も有名なのはフランドルの大きな都市の市場街で開かれたもので、1283年以前にリールでの例が最初に言及されている。出場者は都市市民だけに限定されているわけではなく、近隣の田舎の騎士も参加したが、開催場所や主催者は貴族の開くトーナメントとは明確に異なっていた。トゥルネイ(団体戦)はこの種のトーナメントでより長く残った。
ジョストとトーナメント馬上槍試合、ジョスト

前述したようにジョストは早くからトーナメントの一部であった。主要競技であるトゥルネイ(団体戦)の前日の夕方に前夜祭として行われると共に、トゥルネイの前座としても行われた。12世紀ごろにはトーナメントにおけるジョストはしばしば禁止された。禁止の理由はジョストを行うことで騎士がメインのトゥルネイに参加しなかったり、不正行為に利用されることがあったからである。1160年代のトーナメントでフランドル伯フィリップは、彼の随員とともに前座のジョストを行い、他の騎士が疲労して捕獲しやすくなるまでトゥルネイには参加しなかった。

13世紀の初頭までにジョストは人気を獲得しており、1220年代からはトーナメントとは別に開催されるようになった。『ウィリアム・マーシャルの生涯』では、1224年頃にジョストがトゥルネイよりも貴族に人気があったことが記述されている。1223年にキプロスでベイルート卿ジャン・ディブランが開催した、初めてジョストだけの「円卓の催し」が記録されている。これは参加者がアーサー王伝説の騎士に扮して円卓に集まり、ジョストの対戦相手を決めるものである。「円卓の催し」は13世紀に人気があり、ジョスト競技会の予選としても行われ、騎士も従者も参加した。その他の形式のジョスト競技会も同時期に始まり、14世紀までにはジョストはトーナメントが廃れるのに伴う貴族の娯楽を埋めるものとなった。
装備様々なメイス

トーナメントにおいて、特別な武具や防具が使用されたかは難しい問題である。さらに問題になるのは12、13世紀の騎士と軍馬の装備が、戦争のためというより、むしろトーナメントの必要に応じて、どのように改造されたかということである。しかし、史料によりはっきりしているのは当初はトーナメントで使用された装備は、実戦で使用されたものと同じだったということである。ただし、大部分の場合、トーナメントでは剣は刃を鈍らせたものを使っていた。

13世紀頃に少なくともジョストにおいて変化が起こった。1220年ごろの『ランスロットの詩』では、ジョストでは特別のスピアを使ったとしている。1252年のウォルデンで開かれたジョストでは尖頭の代わりにリング状のソケットを付けたランスが使用された。1292年のイングランド王エドワード1世が発布した「武具に関する条例」ではトーナメントでは鈍らせたナイフを使うことが規定されている。しかし、この規定はむしろ、それまでは一般的に、そうでないものを使っていたことを示唆している。
その後のトーナメント

トーナメントが廃れるのは直線的な過程ではなかった。14世紀の社会ではアーサー王時代を理想とする騎士道物語がトゥルネイを扱っているため、トゥルネイは戦士としての重要な技術だと考えられていた。トーナメントはイングランドではエドワード1世(在位:1272年-1307年)やエドワード3世(在位:1327年-1377年)のような武勇や十字軍を好む王の時代に復活した。しかし、それにも係わらず、後者の時代にトーナメントは終焉を告げた。エドワード3世は、技術披露的な競技会や主にジョストのみの催しを勧め、主催した。イングランドで開催された最後のトーナメントは1342年にダンスタブルで行われたもので、ジョストによりトゥルネイの開始が遅れ、突撃を行う時には日が沈みかけていた。フランスではトーナメントはもう少し長生きし、1379年にブルッヘで最後に開催されたのが知られている。同年にフランドル伯がヘントでトーナメントを開催することを告知すると、同市の市民の暴動が発生した。彼らの不満はトーナメント開催により発生する費用負担のためであった。
関連項目

ジョスト

フエゴ・デ・カーニャス - アルゼンチンで行われた類似の競技。

サラセン人の馬上槍試合(英語版)-イタリアのアレッツォで開催される祭り。

トーナメント方式

典拠管理データベース
国立図書館

ドイツ

イスラエル

アメリカ

その他

スイス歴史辞典


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