騎士たちは個人や団体で到来し、宿泊用に用意された2つの会場のどちらかに滞在した。見物台が作られる主要会場の競技場でトーナメントは始まる。トーナメントの日には一方の側が主要会場の内側に集まり、他方が外側に集まる。トーナメントに参加する騎士、マネッセ写本
前日には地元の有力者による宴会がそれぞれの会場で開かれ、前夜祭としてジョスト(ベスパー(晩祷)と呼ばれる)が行われ、個々の騎士にその能力を披露する機会が与えられた。当日は、まず両方の隊が行進した後、鬨の声を上げ、両方の隊から進み出た個人によるジョストが再び行われる。通常は新米の若い騎士などが機会を与えられた。
午前中の中頃までに騎士たちは突撃のために列を作って並び、ヘラルドの掛け声を合図にランス(槍)を水平に構えて、それぞれの相手に向かって突撃する。落馬せずに残った騎士は素早く方向転換(ターンturn。トーナメントtournamentの名の由来である)し、次に攻撃する騎士を選ぶ。境界線(観客席の前に柵と盛り土で作ったライン)上には従者がいて、3本の替えのランスを用意していた。やがて競技は乱戦となり、両方の騎士が身代金目当てに相手側の騎士を攻撃し、2つの会場の間に競技場として設定された数平方マイルの空間に広がって戦う。両陣営が疲れるか、日が暮れるかすると終了する。もし片方が突撃により崩れて自陣に敗走し、境界線や警備の歩兵隊の後ろに逃げると、それ以前に終了することも多い。トーナメントが終わるとその日のパトロンが豪勢な宴会と余興を開き、両陣営における最優秀騎士が選ばれて祝福を受けた。 早くからトーナメントは非常に人気があった。イングランドで最初にトゥルネイについて書かれたものは、ウォリックシャーの騎士オズベルト・アーデンの旅行許可書でノーサンプトンとロンドンを旅行し、さらにイギリス海峡を渡ってフランスの競技会に参加したことが示されている。この許可書は1120年代以前のものである。北フランスの大きなトーナメントにはドイツ、イングランド、スコットランド、オクシタニア、スペインから数百人の騎士が参加した。1179年11月にルイ7世が息子の戴冠を祝って開いたLagny-sur-Marneのトーナメントでは3000人の騎士が参加したとの記録がある。1279年にフィリップ3世がサンリスとコンピエーニュで開いたフランス王主催のトーナメントは、より盛大なものだった可能性がある。 トーナメントに貴族が熱狂したことは、1120年代以前に中心地である北フランスから開催地が拡大していることに現れている。イングランドとラインラントでの最初の開催は1120年代である。『ウィリアム・マーシャルの生涯』では1160年代にトーナメントが中央フランスとブルターニュで開かれたことが示されている。ベルトラン・デ・ボルンがトーナメントの世界に関して語った作品では、北スペイン、スコットランド、神聖ローマ帝国で開催されたとしている。ラウターベルク年代記
人気と禁止令
このような大きな関心と広がりを考慮すると、すぐに国王や教会などの権威がトーナメント禁止令を出し始めたことは奇妙に思われる。1130年に教皇インノケンティウス2世はクレルモンの公会議でトーナメントを禁止して、競技で死亡した騎士のキリスト教による埋葬を禁じた。通常、教会が禁止する理由は、貴族たちがトーナメントに熱中するあまり、「キリスト教世界の防衛」という、より重要な戦争(十字軍、レコンキスタ等)をおろそかにすると考えたためである。しかし、イングランドでヘンリー2世が禁止した理由は公的な秩序への脅威が理由である。トーナメントへ向かう騎士は途中で強盗や一般人への乱暴を働いたりしがちであり、ヘンリー2世はスティーブン王時代の無秩序状態からの秩序の回復を非常に重要視していた。このため大陸領土においてはトーナメントを禁止しておらず、彼の3人の息子(若ヘンリー、リチャード、ジョフロワ)は非常にこの競技を好んでいた。但し、1186年にジョフロワがパリでの試合で亡くなると、盟友の死を悼んだフランス王フィリップ2世はその後、息子のルイ8世にいかなる試合への出場も禁止している。