香辛料
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日本スパイス協会は、食材に香り、辛み、色調を出す植物全般を「香辛料」として扱い、そのを「ハーブ」、それ以外の部位を「スパイス」と呼んでいるが、世界的に統一された定義はなく、日本料理に使われる薬味もスパイスといえる[1]
概説展示され売られる香辛料(エジプトにて)

料理に香辛料を加えることにより、味に変化が生まれ、おいしく感じさせたり食欲を増進させたりする効果がある。独特の臭みを持つ食材に対しては、臭み消しとして利用される。ひき肉に対するナツメグや、魚に対するショウガなどがその典型的な例である。臭みが感じられなくなるおかげで、素材の旨味が引き立つ。似たような使い方をする食材にハーブがある。ハーブは生のままか乾燥させた植物の葉や茎といった緑色部分を利用するが、ほとんどの香辛料は植物の実や種子地下茎そのものや、それらを乾燥させたもの、乾燥の後に細かくしたり粉にしたものである。たいてい少量で強い効果を持つので、家庭用には10センチメートル程度の大きさの小ビンに入れられて売られていることが多い。

また香辛料は、匂いの強い食品や保存による腐敗臭を抑える効果がある。このため、胡椒などは大航海時代保存食に必要な素材として珍重され、同時に輸入や生産地の確保が航海の主要な目的の一つとなった。香辛料は一般に防腐殺菌作用が強い、病気の回復作用があると信じている人は多いが、必ずしもそのような効果を持つとはいえない。

そのほか、料理に色を付ける目的でも使われる。たとえば、パエリアで使われるサフランや、カレー沢庵に使われるターメリックなどがその典型的な例である。

香辛料の味や効能を特徴づける成分には、テルペン類、フェニルプロパノイドアルカロイドなどがある。多様なアルカロイドのうちには生物活性が強いものが多く、ナツメグのように使い方によっては毒物になるものもある。

香辛料(スパイス)が料理の味に特徴を加えることから転じて、物事にちょっとした特徴を加えて目立つようにしたり気の利いたものにしたりすることやアクセントを加えることを、「スパイスを利かせる」と表現することがある。
歴史
世界における歴史

インドにおいては紀元前3000年頃から既に黒胡椒やクローブ等の多くの香辛料が使われていた。紀元前1200年頃の古代エジプトスリランカ産のシナモンが献上された記録が残っている。紀元前5世紀に著されたというヘロドトスの『歴史』にはオリエントの産品としてKinnamomonという植物産品が記されている。研究者の間では、インドもしくはマレー半島からもたらされた香辛料だといわれている[2]。やがて、ヨーロッパに知られる香辛料の種類も増え、紀元1世紀頃には海、陸のシルクロードを経てヨーロッパに香辛料が流入し始めた。

ローマ帝国の滅亡、イスラム勢力の勃興、十字軍など東西交流を難しくさせる要素が重なり、中世ヨーロッパでは香辛料は大変珍貴なものとなった。貴重な香辛料をふんだんに使えることがステータスを誇示することとなり、王侯貴族の会食料理は過剰なまでに香辛料を使った料理へと発展し、香辛料が貴金属のように献上品としてやり取りされた[3]

ヨーロッパの人々の多くは、古くから肉や魚を多く食べていたが、内陸まで食材を運んだり冬期に備えたりするために肉や魚を長期保存する必要があった。中世においては、その食味から、クローブや胡椒などには高い防腐作用があると信じられていたため、食材の保存において欠かせない防腐剤として扱われた(実際には胡椒自体に防腐効果はほとんどなく、肉の表面にたっぷりとまぶすことにより直に触れる分が減ったり、香りを損ねないためにやや乾燥状態にして保存するといった側面が大きい)。また、その香りが病魔を退治すると信じられており、として焚く用途も多かった。さらに、水がそれほど豊富でない地域では、体の洗浄不足と肉食が相まって体臭が問題になり、香辛料に関する大きな需要が発生した。

中世にはムスリム商人がインド洋における香辛料貿易を独占し、ルネサンス期にはヴェネツィア共和国がエジプトのマムルーク朝オスマン帝国からの輸入を独占した。ポルトガルはヴェネツィアの香辛料貿易独占を打破するために喜望峰経由のインド航路を開拓した(「ポルトガル海上帝国」参照)。

クローブ、ナツメグなど一部の香辛料はインドネシアモルッカ諸島でのみ産出した。また胡椒はインド東海岸やスマトラ島で多く生産された。このため、これらの地域と交易を行なって香辛料を手に入れることが、国を保つために重大な関心事となった。すなわち、香辛料がヨーロッパの人々を世界進出に駆り立てた。造船技術や天文学などの科学技術の発達によって長期の航海が可能となったとき、大航海時代の幕が開けた。ヨーロッパ人は大挙して新大陸やアジアに進出し、植民地化や、現地住民に対する略奪、虐殺、強制を伴ったキリスト教への改宗を実行していった。

このように、当初は東側に向けて香辛料を求める進出が続いたが、貿易の主導権の争いは熾烈なものとなっていったため、一部の人たちは西側にも目を向けるようになった。クリストファー・コロンブスもその一人で、1492年スペインから西に出帆した。結局のところ、彼は香辛料の主産地であるインドやインドネシアには到達できなかったが、アメリカ大陸に到達し、その存在をヨーロッパ人に知らしめた。彼の目的地がインドであったことは、当初アメリカ大陸をインドと勘違いし、そこに住む先住民を「インディオ」と呼んだことに色濃く残っている。この呼称は現在に至るまで残っている。新大陸には期待された香辛料は無かったが、新しいタイプのトウガラシバニラはすぐにヨーロッパに受け入れられた。

17世紀に入ると、オランダがアジアに進出してポルトガルと争い、モルッカ諸島やスマトラ島を直接支配下に置いた。近代になると香辛料は各地で栽培されるようになり、貿易における重要性は薄れる。香辛料の使われ方も近代になるにつれて洗練されていき、ヨーロッパでの需要は減少に向かっていった。しかし、20世紀に入るとアジアやラテンアメリカ各地の料理が世界的に普及し、香辛料の需要は急速に拡大している。
日本における歴史

古くは『古事記』中に「はじかみ」(波士加美、波之加美)に関する記述が見られる。これは当時の日本に知られていた香辛料類、すなわちショウガサンショウを指す総称であった。

奈良正倉院には、天平勝宝8歳(756年)、光明皇后が60種の薬物を東大寺大仏に献納した際の目録(通称『種々薬帳』)が残されている。この目録には舶来生薬類の名が多く記載され、中には「胡椒」「畢撥(ヒハツ[注 1]」「桂心(=桂皮)」などの名も見られる[4]

目録の名からもわかるとおりこうした香辛料類はまず薬品として日本にもたらされ、種類によってはその後長期にわたって漢方薬の材料などに使われたのであったが、一方で、ヨーロッパのようにこれらを料理に用い、さかんに輸入・消費していくような気運は、結局日本では生まれなかった。その背景には日本人が肉食をほとんど行わなかったこと、また発酵調味料を積極的に利用したことなどから、香辛料への潜在的需要が本来低かったということが大きい。食物の味を引き立てることが日本の香辛料の唯一の役割であり、人工の香りを発し素材の香りを殺すといった自己主張はあってはならないとされたのである[5]

とはいえ中世期になると、より身近な地産の草菜類を利用して、「薬味」「加薬(かやく)」などの概念が発展しはじめる。

江戸時代には日本料理でも薬味の使用が発達し始め、当時の料理書『素人包丁』には、「鯛飯」の項に「加益(カヤク)はおろし大根ネギのりとうがらし」と記されている。大根紫蘇芥子生姜山葵といった香辛料が特に薬味として好まれ、多用された(特にネギは日本料理に欠かせない存在となり、ダイコンは大根おろしなどの形で大量に用いられた)。そのほか、料理書には山椒ゆず肉桂(シナモン)などを使った例がいくつかみられた。胡椒も一時期、うどんの薬味として使われたことがあるが、唐辛子の普及により廃れた(近畿地方などでは現在でも胡椒が用いられている)。その唐辛子はかなり普及し、日本独自のブレンド香辛料である七味唐辛子も登場したが、これらはいずれも風味付け程度の少量の利用にとどまった。

大正時代の頃になるとカレーライスを食べさせる店などが少しずつ創業するようになり、刺激の強いカレーの味覚も少しずつ日本人の知るものとなっていった。


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