1984年12月18日?1985年1月5日まで日本ロケ[3]。12月18日東京ヒルトンホテル41階スイートルーム四部屋を使い撮影[3]。撮影終了後はそのまま関係者の寝室となった[3]。サモ・ハン・キンポー監督は12作目の監督作品[3]。「街の様子、冬の景色など他の都市にはない魅力がある」という理由で日本ロケを決めた[3]。スタッフは45人。脚本はあるが盗難を恐れて印刷をせず、撮影するシーンごとに監督がキャスト・スタッフに説明してリハーサル→本番の繰り返し[3]。ジャッキー・チェンは12月21日夜に来日し[3]、12月22日早朝からの山梨県富士吉田市の富士急ハイランドロケから撮影に参加[3]。メリーゴーラウンドの高さ25メートルの鉄柱をよじ登って降りるシーンで右足首を痛めた[3]。そのまま撮影を続けたが、日本の予想外の寒さもあって筋肉がこわばり症状を悪化させ、12月25日成田空港から車イスで帰国した[3]。 日本での同時上映は『嵩山少林寺
日本劇場公開版
2014年12月に発売された国内版ブルーレイでは、1985年当時の日本劇場公開版フィルムをニュープリントテレシネ/HDリマスタリングで全編収録されており、公開から約30年を経てようやく日本公開版の初ソフト化が実現された。
脚注
出典[脚注の使い方]^ a b c デアゴスティーニ(2014年)目次頁
^ 「1985年邦画4社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報』1986年(昭和61年)2月下旬号、キネマ旬報社、1986年、128頁。
^ a b c d e f g h i j “J・チェン(映画) 都内で極秘ロケ 18日から撮影中 チェン23日から合流”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 15. (1984年12月20日) “ヒエ?ッ地上25メートル "軽業師"J・チェン 映画『五福星・U』ロケ 初の日本ロケ ファン『さすが?』”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 13. (1984年12月23日) “J・チェン負傷していた 飛び降りシーンで右足首を 車イスで帰国”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 13. (1984年12月26日)
注釈^ 「黄炳耀」(ウォン・ピンユー)は香港の脚本家であり、日本語圏でのみ「バリー・ウォン」として知られる香港の映画監督・プロデューサー、「王晶」(ウォン・ジン)とは別人である。
外部リンク - allcinema
⇒大福星 - KINENOTE
Daifukusei