香港映画
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それが“亜洲影帝”デビッド・チャン(姜大衛)と“武林大侠”ティ・ロン(狄龍)である。1969年にチャン・ツェーが監督した『死角』で初めてコンビを組んだ2人は、そのフレッシュな佇まいとスピーディーなアクションで、主に女性ファンから支持された。1970年には、2人の代表作となった『ヴェンジェンス 報仇』に出演した。この作品は、京劇の世界を舞台にした壮絶な復讐劇で、悲劇的な運命に翻弄されていく兄弟を演じた2人は、本作の大ヒットでアジアの超スーパースターへと登り詰めた。
ゴールデンハーベストの台頭ゴールデンハーベスト社のロゴマークドラゴンへの道

1964年6月20日、台北で行われた第11回アジア太平洋映画祭に出席していたMP&GIのロク・ワントーが、訪問先の台中で飛行機事故により死亡。事故機にはロクの他にMP&GIの総経理や製作部長も同乗しており、製作陣首脳を一挙に失ったMP&GIは失速、1970年に映画製作から撤退する。

1969年、ショウ・ブラザースの製作本部長を務めていたレイモンド・チョウ(鄒文懐)は、ランラン・ショウの第2夫人だったモナ・フォン(方逸華)と何度となく衝突した。そして翌1970年、相棒のレナード・ホー(何冠昌)とロー・ウェイ(羅維)夫妻を引き連れて、ついにショウ・ブラザーズを離脱し、『ゴールデン・ハーベスト(嘉禾影片公司)』を設立した。設立当初のゴールデン・ハーベストは、撮影所さえ満足に所有出来ない状況が続き、映画製作から手を引く直前のMP&GIの撮影所を借りて撮影をしていた。所属俳優も、ショウ・ブラザーズのデビット・チャンやティ・ロンのような看板スターも不在で、無名の俳優中心での映画製作には、やはり限界があった。

そのため1970年、ゴールデン・ハーベストは新人俳優募集のオーディションを開き、後に“嘉禾三大玉女”と呼ばれるようになる3人の女優達を発掘した。ノラ・ミャオ(苗可秀)、マリア・イー(衣依)、アンジェラ・マオ(芽瑛)の3人である。まず、ゴールデン・ハーベストの創業作品『天龍八将』に3人を出演させてテストを行い、それぞれの個性を見た。それにより、ノラ・ミャオとマリア・イーは映画のヒロインとして売り出すことになり、アンジェラ・マオはレディ・クンフー・スターとしての道を歩んだ。

男優陣も、ショウ・ブラザーズからベテラン俳優ティエン・ファン(田豊)、まだ無名だったジェームス・ティエン(田俊)らを引き抜き、新人オーディションではトニー・リュウ(劉永)をスカウトした。

1970年の4月、『吠えろ!ドラゴン、起て!ジャガー』が香港で興行収益第1位を獲得していた。1971年、ブルース・リー(李小龍)は、ゴールデン・ハーベストと1本につき1万米国ドルで2本の主演映画契約を結び、『ドラゴン危機一発』に決まった。

1980年代になると新興会社「シネマシティ」が設立され、『男たちの挽歌』でコメディ映画やカンフー映画が主流だった香港映画界に香港ノワール(英雄式血灑(中国語版))と呼ばれる新しい流れを作った[2]
中国映画界への合流

1997年香港返還後、ジャッキー・チェンユエン・ウーピンジェット・リージョン・ウーチョウ・ユンファのようにハリウッドに活路を見出す流れと並行して中国映画界への合流も急速に進み、香港の名だたる監督・俳優の多くが中国映画に進出しているほか、中国・香港の合作映画が増えた。その直接の要因は、SARS流行以降の香港の不況により中国本土・香港経済連携緊密化取決め(CEPA)が結ばれ、中国資本が流入したためである。香港映画の黄金時代を象徴したショウ・ブラザーズもゴールデンハーベストも中国資本に買収されることとなった[3][4][5][6][7]

ダンテ・ラムが監督した中国人民解放軍全面協力の戦争映画オペレーション:レッド・シー』が中国での歴代興行収入第2位(当時)に輝くなど、香港映画人の中国での活躍は中国映画の娯楽性の向上の一端になったが、これが従来の「香港映画」の衰退の原因となったほか、合作映画においても中国共産党政府の検閲がされるようになった[8]。香港影業協会によると、全盛期の1993年に年間234本製作された香港映画は、2013年には43本に激減している。
脚注[脚注の使い方]^“Robust film industry is in our best interest”. South China Morning Post. (2017年3月20日). ⇒http://www.scmp.com/comment/insight-opinion/article/2080338/hong-kongs-film-industry-worth-backing 2019年7月25日閲覧。 
^ Logan, Bey. Hong Kong Action Cinema. Woodstock, NY: The Overlook Press, 1995. ISBN 0-87951-663-1.
^“??:嘉禾主席?文?退休 公司交棒橙天??”. 新浪. (2007年11月6日). ⇒http://ent.sina.com.cn/m/c/p/2007-11-06/09031779891.shtml 2019年8月23日閲覧。 
^“橙天??入主香港嘉禾 ?洲?影?奇注入新血液”. 新浪. (2007年11月1日). ⇒http://ent.sina.com.cn/m/c/2007-11-01/23511773467.shtml 2019年8月23日閲覧。 
^“橙天成功并?嘉禾 成内地第一家上市??企?”. 中国中央電視台. (2008年7月14日). ⇒http://news.cctv.com/performance/20080714/104372.shtml 2019年8月23日閲覧。 
^ “ ⇒?人文化黎瑞?的?奇??”. 中金在?香港 (2017年2月10日). 2019年7月25日閲覧。
^ “香港ショウブラザーズ、映画製作を再開”. 日本経済新聞. (2016年10月28日). https://www.nikkei.com/article/DGXLASDX28H0G_Y6A021C1FFE000/ 2019年7月25日閲覧。 
^ “香港映画「中国化」進み低迷 大陸向け合作が急増、香港にこだわる若手監督も頭角”. フジサンケイビジネスアイ. (2017年9月4日). https://web.archive.org/web/20170910192705/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/170904/mcb1709040500004-n1.htm 2019年7月25日閲覧。 

関連書

四方田犬彦斉藤綾子『男たちの絆、アジア映画 ホモソーシャルな欲望』平凡社, 2004

関連項目

香港ニューウェーブ

香港関係記事の一覧

中国映画

台湾映画

四大天王

香港歴代興行収入上位の映画一覧

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