フィルム・ノワール(仏: Film Noir)は一般に1940年代から1950年代後半にハリウッドでさかんに作られた犯罪映画のジャンルを指し、アメリカ社会の殺伐とした都市風景やシニカルな男性の主人公、その周囲に現れる謎めいた女性の登場人物(ファム・ファタール)などを主な物語上の特徴とする[1][2]。第二次大戦前後のアメリカ映画を分析したフランスの批評家によって命名された[3]。
映像面では照明のコントラストを強くしたシャープなモノクロ画面や、スタイリッシュな構図が作品の緊張感を強調するために多用されることが多い[4]。
ただし何を「フィルム・ノワール」とするかは論者によって幅が大きく、明確な定義は定まっていない[5]。しかしこうした物語・映像表現上の特徴を受けついでヨーロッパや香港など、世界各地で制作された映画を指して「ネオ・ノワール」、近年韓国で作られるようになったものが「韓国ノワール」と呼ばれるなど[6]、批評用語としては広く定着した表現である[5]。 第二次大戦前の古典的アメリカ映画は上流階級・ミドルクラスの人々の幸福な生活や恋愛、ハッピーエンドにいたる明朗で楽観的な物語構造などを大きな特徴としていたが[6]、第二次大戦の終戦間際から戦後にかけて、これとは大きく異なる雰囲気の作品が相次いで登場した[7]。 ビリー・ワイルダー『深夜の告白』(1944)やニコラス・レイ『孤独な場所で』(1950)、ジャック・ターナー『過去を逃れて』(1947)、ジョン・ヒューストン『マルタの鷹』(1941)、ラオール・ウォルシュ『白熱』(1949) といった作品は、大都市の片隅で暮らす孤独な生活者、腐敗した役人、冷酷なジゴロ、心を病んだ残忍なギャングといった人物像を描き、人々の破滅的な生活と絶望を重要な主題としていた[1]。 新しいアメリカ映画の傾向を分析したフランスの批評家ニーノ・フランクが、そうした一群の映画を「フィルム・ノワール Film Noir」と呼んだ[8]。 ノワール Noir は英語の「ブラック(黒)」で、当時のフランスでは老舗出版社ガリマール社が刊行を開始した大衆犯罪小説のシリーズ「ロマン・ノワール Roman Noir (暗黒小説)」が人気を集めており、このシリーズの特徴だった悲観的なトーンがよく似ていることから名づけられた呼び名である[3]。さらにさかのぼればこの「暗黒小説」の名称は、犯罪を主要な題材としていたウージェーヌ・シュー『パリの秘密』のような19世紀の風俗小説の呼び名から採られていた[1]。 ニーノ・フランクが取り上げた作品は『マルタの鷹』のほかエドワード・ドミトリク『ブロンドの殺人者
概要ハワード・ホークス『三つ数えろ』(1946) はハードボイルドな主人公やスタイリッシュな画面で、典型的なフィルム・ノワールと呼ばれる[2]。
フィルム・ノワールの登場
フランスで注目されたフィルム・ノワール
ここで取り上げられた映画作品がいずれも光と影のコントラストを強調しており、画面が以前のアメリカ映画よりもはるかに黒々として見えたことから、「ノワール(黒)」の呼び名は新しい映画の動きをよく言い当てているとも受け止められ[10]、やがてフィルム・ノワールという名前はアメリカを含む世界各国に広まってゆくことになった[4]。『深夜の告白』(1944)ポスター。 アメリカでこれらの映画を製作した人々の多くは、ナチスの迫害を逃れてハリウッドへ亡命した映画製作者たちだった[11]。 彼らは第二次大戦前に映画大国だったドイツで、表現主義的なコントラストの強い照明や、レンズで構図を歪める手法といったハリウッド映画とは異なる撮影技術に習熟しており、それがそのままアメリカへ持ち込まれた[11]。 また彼らはレイモンド・チャンドラーやダシール・ハメット、コーネル・ウールリッチなど、当時はB級と考えられていたアメリカ大衆小説作家の犯罪小説に強い関心を示し、そこに現れるシニカルでテンポのよい会話を映画の台詞に取り込んでゆくことになった[12]。 彼らが作りだしたフィルム・ノワール映画の流行は遅くとも1960年代前半には衰退するが、暗く悲観的な物語構造や、スタイリッシュで陰鬱な画面を使う映像表現手法は世界各国に広まり、その後も多くの映画に流用されてゆく[2]。 英語圏の映画研究・映画批評において「フィルム・ノワール」の語が一般化したのはこの頃で、ニューヨーク近代美術館で開催された大規模な連続上映会や、映画監督・批評家ポール・シュレーダーによる評論などがそのきっかけとなった[2]。 アメリカでフィルム・ノワールの後継と考えられている作品に、アラン・J・パクラ『コールガール』(1971)、フランシス・フォード・コッポラ『カンバセーション…盗聴…』 (1974)、ロマン・ポランスキー『チャイナタウン』(1974)、アーサー・ペン『ナイトムーブス』(1975)、マーティン・スコセッシ『タクシー・ドライバー』(1976)などがある。 さらに1980年代以降には、後述するような特徴を多く持った作品をさして「ネオ・ノワール」と呼ぶ論者も現れた[13]。ここにはデビッド・リンチ『ブルーベルベット』(1986) やクエンティン・タランティーノ『レザボア・ドッグス』(1992) などが挙げられている。ジョン・ウーやウォン・カーウァイなどの作品を「香港ノワール」と呼ぶこともある[13]。 「フィルム・ノワール」という言葉には学術用語のように厳密な定義があるわけではなく、それが映画史上の運動なのかジャンルなのか、または美学的なスタイルなのかも論者によってきわめて大きな議論の幅があるが[6]、「ノワール風」とされる映像感覚が世界各国の映画表現において、現在にいたるまで重要な一角を占めていることは確かである[14]。
亡命者が支えたフィルム・ノワール
米国での再評価と「ネオ・ノワール」詳細は「ネオ・ノワール」を参照
定義の不在