香淳皇后
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足立たか[注釈 2]の回想によると幼稚園では皇族は他の在籍児童らとは別室で昼食をとるが、そのとき妹の信子女王の他、後に自身と結ばれる迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)と淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と同室であった[7]。教諭の野口幽香子は、この様子を見て迪宮と良子女王の縁組を予感した[8]

1909年(明治42年)、学習院女学部小学科入学。小学科2年生の時、授業に出たタライが分からなかったことを機に、自ら洗濯の仕方を学び、後年まで侍女たちと共に洗濯をするようになった[9]

1912年(明治45年/大正元年)7月30日、後の義祖父に当たる明治天皇の崩御後、母・俔子妃や妹宮とともに昭憲皇太后の元へ弔問のため参内し皇太后の目に留まる[10]

1915年大正4年)、学習院女学部中学科進学。前年1914年(大正3年)4月9日に崩御した昭憲皇太后の遺志によって、1915年(大正4年)夏に迪宮裕仁親王が学友らと箱根の神山登山をした際、良子女王は同地の宮内旅館での見送りの一員に加わった[11]

1916年(大正5年)11月3日、迪宮裕仁親王立太子の礼が行われた。この頃から、貞明皇后は学習院女学部へ、式典以外でも行啓して少女たちの態度を観察するようになった[12]。学友達の回想では、少女たちがはしゃぎまわる中でも、良子女王は行儀よく落ち着き、また動作も機敏であったという[13]。やがて良子女王は、上級生の方子女王や(後、李王垠妃、戦後に大韓民国国籍取得)同級生の一条朝子(後、伏見宮家博義王妃)とともに、皇太子裕仁親王の有力な妃候補とみなされるようになる[14]

英照皇太后九条家、昭憲皇太后は一条家、貞明皇后は九条家であり、一条朝子が有力視された[15]。しかし、方子女王は皇太子と同い年であることが、一条朝子は血縁的に近すぎることがそれぞれ懸念され、良子女王が皇太子妃に内定するに至った[15]
お妃教育と結婚延期内約中の良子女王(1922年頃、満19歳)「宮中某重大事件」も参照

1918年(大正7年)1月14日宮内大臣波多野敬直子爵から、第15師団長として愛知県豊橋市に赴任していた父・久邇宮邦彦王に、良子女王が皇太子裕仁親王に内定したことが伝達された[16]。邦彦王はただちに帰京し、参内して、内約を受諾する旨を大正天皇・貞明皇后に言上した[16]

1月19日に報道発表されると、2月4日の学習院の朝礼で、婚約内定に伴い中途退学したことが発表された。4月13日以降は久邇宮邸内に設置された学問所で皇太子妃になる為の教育を受ける。学問所は“お花御殿”と呼ばれ、妹宮たちのほか、親しい学友である佐藤貞子(佐藤達次郎の長女、加藤成之男爵夫人)や平山信子(平山成信の五女)が学習院の授業を終えた後に通い、共に学んだ[17]。学問所での教育は2、3年の予定だった。学問所では、教育主任の後閑菊野と起居を共にし、学問や教養、テニス薙刀等広範に学び[18]、またピアノを神戸絢子に師事した[19]

なお、皇太子妃教育のために創設されたお花御殿の建物はその後に東京市麻布区日ヶ窪(現・東京都港区麻布十番)にあった東京府立第三高等女学校(府立三女)に下賜された[20]第二次世界大戦後の学制改革などにより府立三女が現在の東京都立駒場高等学校と改名し、校舎を現在の目黒区大橋に移転した後、お花御殿の建物も現校地へ移築し、「仰光寮」として保存されている[20]

1919年(大正8年)になって、皇太子裕仁親王は自身の婚約を知った[21]。同年6月、貞明皇后は自身が皇太子妃になった際に昭憲皇太后から贈られたダイヤモンドの腕輪を嫁になる良子女王に与えた[22]。また11月4日、久邇宮夫妻は皇太子を渋谷の久邇宮邸に招き、良子女王と対面の機会を設けた[23]が、儀礼的であり言葉も交わさなかった[21]

1921年(大正10年)11月25日、裕仁親王は摂政に就任した。また同年に入って母系島津家色盲遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫った、いわゆる"宮中某重大事件"が起こる。事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、中でも宮中に影響力を保持しようとする山縣の策略とする見解が強かったため久邇宮家に同情が集まり、原敬首相原内閣)らの反山縣勢力が山縣追い落としにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年2月10日宮内省から「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし。」の発表が行われて事件は決着した(翌日付で新聞記事解禁)。

事件に際し、父邦彦王は貞明皇后に対し、宮内大臣の調書のみで辞退はできぬと上奏し、これが皇后を動かしたとされる[24]。婚約内定から本事件まで、良子女王を写真付きで報じた記事は5本しかなかった[25]。ところが、事件勃発以降、英字誌『The Far East』を皮切りに、良子女王が将来の皇太子妃・皇后に相応しい徳(資質)を有する少女であることをアピールする記事が多数発表されるようになった[26]。情報源は、良子女王の家庭教師後閑菊野や宮務監督栗田直八郎らが中心であり、良子女王の作文や写真も掲載されていることから、久邇宮家側によるメディア工作が行われたと考えられている[27]

また事件を通じ、良子女王に好印象を抱いていたはずの貞明皇后が、辞退もせず、岳父としての政治的野心を見せ始めた邦彦王に立腹して、婚約に消極的になった[28]

事件の決着後、皇太子は史上初めてとなる外遊を行った(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。皇太子はそこで英国王室の歓待を受け、一夫一妻制の確立に影響を受けた。また、フランスでお忍びで買い物に行った際には、久邇宮家の三姉妹のために銀の手鏡を購入して贈った[29]1922年(大正11年)1月22日、皇太子は宮内大臣牧野伸顕を呼び寄せ、将来の家族のプライベートな環境を保つため、女官の通勤制について意見を述べた[30]

立太子した裕仁親王(1916年、満15歳)

内約中の良子女王(1918年頃、満15歳)

婚約内定に際する記念写真、最前列中央が良子女王

『御婚約御変更無し 宮内大臣辞職確定』を報じる東京朝日新聞(大正10年2月11日)

良子女王とメディア露出

宮中某重大事件後の1922年3月、牧野大臣から勅許に関する話を受けて以降、久邇宮家側は良子女王の参拝や訪問に合わせて写真取材を許した[31]。特に、6月10日に幕張海岸で着物の裾をたくし上げながら潮干狩りに興じるスナップ写真は、大きな波紋を呼んだ[32]


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