香取神宮
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軍神の認識を表すものとしては、『梁塵秘抄』(平安時代末期)の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」[原 5]という歌が知られる[3]。一方、「楫取 = かじ()取り」という古名から、古くは航行を掌る神として祀られたという見方もある[2][4]。そのほか、フツヌシとイハヒヌシ(伊波比主/斎主)という異名称の扱いや原始祭祀氏族には不明な点が多く、香取神宮の創祀も含めて諸説がある(詳細は「考証」節参照)。
特徴鹿島神宮茨城県鹿嶋市常陸国一宮。香取神宮とは深い関係にあり、古来並び称される。

香取神宮は、常陸国一宮鹿島神宮茨城県鹿嶋市、北緯35度58分07.88秒 東経140度37分53.37秒 / 北緯35.9688556度 東経140.6314917度 / 35.9688556; 140.6314917 (常陸国一宮:鹿島神宮))と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある[4][5]

鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景には、両神宮が軍神として信仰されたことにある[6]。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼手賀沼を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており[6]、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。

朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。

神郡鹿島・香取両神宮では、それぞれ常陸国鹿島郡下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められていた[7]令集解[原 6]延喜式[原 7]に記載)。神郡を有した神社の例は少なく、いずれも軍事上・交通上の重要地であったとされる[7]

鹿島香取使両神宮には、毎年朝廷から勅使として鹿島使(かしまづかい)と香取使(かとりづかい)、または略して鹿島香取使の派遣があった[7]。伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両神宮は極めて異例であった[7]

神宮」の呼称『延喜式神名帳平安時代官社一覧)では、「神宮」と記されたのは大神宮(伊勢神宮内宮)・鹿島神宮・香取神宮の3社のみであった[7][注 2]

また藤原氏からの崇敬も強く、藤原氏の氏社として創建された奈良春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられた。中世に武家の世に入ってからも、武神を祀る両神宮は武家から信仰された。現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。
歴史
創建

社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは『常陸国風土記』(8世紀初頭成立)[原 8]にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる[8]

また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため[8]、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある[8][3]。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある(「考証」節参照)。
概史春日大社奈良県奈良市)藤原氏の氏社。その創建に際して経津主神は香取から春日へ勧請され、その第二殿に祀られた。

奈良時代、香取社は藤原氏から氏神として鹿島社とともに強く崇敬された。神護景雲2年(768年)には奈良御蓋山の地に藤原氏の氏社として春日社(現・春日大社)が創建されたといい[注 3]、鹿島から武甕槌命(第一殿)、香取から経津主命(第二殿)、枚岡から天児屋根命(第三殿)と比売神(第四殿)が勧請された[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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