首都と呼べる都市を複数持つ国もある。現在日本でも首都が地震や災害などで機能しなくなる事を防ぐ為、首都機能をバックアップする為に近畿圏に副首都を設置・整備する副首都構想がある。
東アジアにおける歴史的な複都制歴史的な複都制については複都制を参照
古代の東アジアでは、中国の唐が長安と洛陽と太原の三都制(後には鳳翔と成都を加えた五都制となる)を採用しており、さらに日本(天武朝など)や渤海などの諸国がそれを模倣したように、複都制が広く行われた。この類型の中には、首都が移動するという場合もある。複都制を採っていた唐も、実質的には長安が第一首都(正都)であってその他の都は名目上(副都)にとどまっていたが、時には皇帝は長安を離れて洛陽に移動し、後者が正都としての機能を果たすこともあった。
鎌倉時代後期・江戸時代の日本でも首都機能が分散されており[注 1]、名目上の首都(天皇のいる京)と、行政機関所在地(幕府のある鎌倉・江戸)とが別々に置かれていた[注 2]。
モンゴル帝国(元朝)では、大ハーンは宮廷を引き連れ、中国の最北端にある大都(現北京)と、上都(草原の南端部、万里の長城をはさんで大都と対の位置にある)を季節移動した。
ガンデンポタン時代前期(1642-1732)のチベットでは、歴代のチベット・ハン
たちはラサのガンデン・カンサル宮殿とダム草原を季節移動した[7]。三権分立の観点から、国家の中枢機能を複数の都市に分割している国がある。
南アフリカ共和国では、国会はケープタウン(ケープタウン都市圏)、行政府はプレトリア(ツワネ都市圏)、最高裁判所はブルームフォンテーン(マンガウング地方自治体)に所在する。同国の首都は行政機関が置かれているプレトリアであるとするのが通例であるが、厳密にいうと南アフリカ共和国には首都が三つあるということになる。
チリでは、行政府と最高裁判所はサンティアゴ・デ・チレにあり、同市がチリの首都とみなされている。ただし、国会はバルパライソに所在しており(1990年移転)、同市はチリの立法首都だということになる。
ドイツ連邦共和国では、国家元首である連邦大統領の官邸や連邦首相府などの行政府と連邦議会などの立法府はベルリンにあり、憲法にあたるドイツ連邦共和国基本法の第22条(1)では「ドイツ連邦共和国の首都はベルリンである」と規定されている。ただし、最高裁判所にあたる連邦憲法裁判所(Bundesverfassungsgericht) や連邦裁判所(Bundesgerichtshof)はバーデン=ヴュルテンベルク州のカールスルーエにある。また、中央銀行であるドイツ連邦銀行はヘッセン州のフランクフルト・アム・マインに置かれている。
東西統一以前のドイツ連邦共和国(西ドイツ)は、ボンを暫定首都としていた。東西統一後の首都をボンのままとするかそれともベルリンにするかは大きな議論となったが、結局は伝統的な首都であるベルリンを再度統一ドイツの首都とすることで落ち着いた。しかし、もとの暫定首都であったボンに対する配慮から、1994年に「ベルリン・ボン法(「ドイツ統一のための1991年6月20日の連邦議会の決議」実施に関する法律) 」が定められ、ボンは連邦首都(Bundeshauptstadt)
時期によって首都を移動させる国もある。
王制時代のリビア(1951年 - 1963年はリビア連合王国、1963年 - 1969年はリビア王国)では、トリポリとベンガジの2つの首都を置いており、国王と政府機関は季節によって両首都を使い分けていた。
王国では、王宮所在地と首都が一致しないことがある。
かつてのラオス王国(1945-1975)では、首都はヴィエンチャンであったが、国王はルアンパバーン(ルアンプラバン)に居住しており、後者はラオスの「王都」と呼ばれていた。これも、「複都制」の類型のひとつとみなすことができよう[注 3]。
エスワティニ王国では、首都であるムババーネには政府と最高裁判所が存在し、国王の居住する王宮と議会(リバンドラ)はロバンバにある。なお、エスワティニの国王は単なる儀礼的地位ではなく、政治の実権を握っている。
首都と、実権を握る国家元首の常住地が異なっている場合もある。 憲法や法律で首都を規定している国家では、憲法や法律で規定された名目上の首都と、国家機関が集中する事実上の首都が異なる例が存在する。
かつてのアフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン政権のアフガニスタン)では、首都はこれまで通りカーブルであったが、国家元首(首長/アミール・アル=ムウミニーン)であるムハンマド・オマルはターリバーンの発祥地であるカンダハールを離れることはなく、さらに国家の最高指導機関である最高評議会もカンダハールにおかれており、カーブルの政府機関はカンダハールのオマルの承認なしにはいかなる政策も実行することはできない状態に置かれた。この時期のアフガニスタンでは事実上、カーブルとカンダハールの二つの首都が存在し、しかも前者は後者に従属していたということができる。
名目上の首都と事実上の首都の分離
オランダ:憲法上の首都であるアムステルダム[8] と、国家機関所在地であり国家元首である国王(現在はウィレム=アレクサンダー 国王)の常住地(事実上の首都)であるハーグ[注 4]。
ボリビア:憲法上の首都であり最高裁判所所在地であるスクレと、行政府と国会の所在地であるラパス。1826年の建国から1890年まではスクレが名実ともにボリビアの首都であったが、1899年にラパスを拠点とした勢力が革命によって政権を掌握し、翌年に議会と政府をスクレからラパスに遷した。