時期によって首都を移動させる国もある。
王制時代のリビア(1951年 - 1963年はリビア連合王国、1963年 - 1969年はリビア王国)では、トリポリとベンガジの2つの首都を置いており、国王と政府機関は季節によって両首都を使い分けていた。
王国では、王宮所在地と首都が一致しないことがある。
かつてのラオス王国(1945-1975)では、首都はヴィエンチャンであったが、国王はルアンパバーン(ルアンプラバン)に居住しており、後者はラオスの「王都」と呼ばれていた。これも、「複都制」の類型のひとつとみなすことができよう[注 3]。
エスワティニ王国では、首都であるムババーネには政府と最高裁判所が存在し、国王の居住する王宮と議会(リバンドラ)はロバンバにある。なお、エスワティニの国王は単なる儀礼的地位ではなく、政治の実権を握っている。
首都と、実権を握る国家元首の常住地が異なっている場合もある。 憲法や法律で首都を規定している国家では、憲法や法律で規定された名目上の首都と、国家機関が集中する事実上の首都が異なる例が存在する。 遷都を宣言したにもかかわらず、新首都に国家機関の移転が進まず、実際の首都機能の大半が未だ旧首都にとどまっている事例もある。 それとは逆に、新たな都市を建設して首都機能の主要部分を移転するという事例もある。この場合、遷都は宣言されない。また、法的な首都の方にも首都機能の一部は残ることになる。
かつてのアフガニスタン・イスラム首長国(ターリバーン政権のアフガニスタン)では、首都はこれまで通りカーブルであったが、国家元首(首長/アミール・アル=ムウミニーン)であるムハンマド・オマルはターリバーンの発祥地であるカンダハールを離れることはなく、さらに国家の最高指導機関である最高評議会もカンダハールにおかれており、カーブルの政府機関はカンダハールのオマルの承認なしにはいかなる政策も実行することはできない状態に置かれた。この時期のアフガニスタンでは事実上、カーブルとカンダハールの二つの首都が存在し、しかも前者は後者に従属していたということができる。
名目上の首都と事実上の首都の分離
オランダ:憲法上の首都であるアムステルダム[8] と、国家機関所在地であり国家元首である国王(現在はウィレム=アレクサンダー 国王)の常住地(事実上の首都)であるハーグ[注 4]。
ボリビア:憲法上の首都であり最高裁判所所在地であるスクレと、行政府と国会の所在地であるラパス。1826年の建国から1890年まではスクレが名実ともにボリビアの首都であったが、1899年にラパスを拠点とした勢力が革命によって政権を掌握し、翌年に議会と政府をスクレからラパスに遷した。
モンテネグロ:憲法上の首都であるツェティニェと、国家機関所在地(事実上の首都)であるポドゴリツァ。
ベナン:憲法上の首都であるポルトノボと、国家機関所在地(事実上の首都)であるコトヌー。
スルプスカ共和国(セルビア人共和国)(連邦国家ボスニア・ヘルツェゴビナのふたつの構成体国家のうちのひとつ):憲法上の首都であるイストチノ・サラエヴォ(東サラエヴォ)と、国家機関所在地(事実上の首都)であるバニャ・ルカ。
スリランカ:1985年にコロンボからスリジャヤワルダナプラコッテに遷都したが、現在も国会議事堂、森林局などが新首都に移転しただけで、大統領府をはじめ行政機関の大半はコロンボにとどまっている。
インド:従来はデリー(インド首都圏)のオールドデリー地区が首都であったが、新首都として建設されたニューデリー地区に移転。但しニューデリーはオールドデリーと同じく、未だにデリー(正式にはデリー首都圏)の一角をなす行政区分となっているため、法定上の首都はデリーとしている。なお、日本ではニューデリー(地区)とデリー市本体を一括にせず、個別の自治体扱いとして区分されている場合が多い。
タンザニア:法律上の首都であるドドマと、旧首都で今でも国家機関の多くが置かれているダルエスサラーム。
コートジボワール:1983年にアビジャン からヤムスクロに遷都されたが、行政官庁などの移転は進まず(在コートジボワール日本大使館もアビジャンにある ⇒[3])、実質上の首都機能は現在も同国最大都市であるアビジャンが果たしている。
マレーシア:首都はクアラルンプールであるが、連邦政府および連邦裁判所はクアラルンプールの南郊約25kmの場所に建設された新行政首都プトラジャヤへ移転した。