首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑
[Wikipedia|▼Menu]
こうした刑罰はエドワード1世の時代に、より頻繁に記録が残っている[4]

ウェールズのダヴィズ・アプ・グリフィズ(英語版)は国王に反旗を翻し、ウェールズ王子とスノードン公を名乗ったが、捕らえられ、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑を受けた最初のイングランドの貴族となった[5]。ダヴィズの反乱はエドワード1世を激怒させ、過去に例のない厳罰を要求した。この結果、1283年の彼の拘束と裁判の後、まず反逆罪で馬による引きずり回し刑で処刑場へと連行された。そしてイングランドの貴族を殺した罪により生かされたまま首を吊られた。次にその貴族殺しを復活祭に行った罪により、内臓抉り及び、取り出した臓物を焼く刑が執行された。そして、国中の様々な場所で王殺しを企てた罪により、その遺体は四つ裂きにされて国中に送られ、頭部はロンドン塔の上部に置かれた[6]。同様の運命を辿って苦しみを与えられたのがスコットランド反乱の指導者であったウィリアム・ウォレスであった。1305年に捕らえられ裁判にかけられた彼は月桂樹の王冠を被らされて晒し者にされた後、平民に対する処刑地であったスミスフィールドへの引きずり回しを受け、そこで絞首刑にされて断首された。その後、取り出された内臓が焼かれ、四つ裂きにされた。頭部はロンドン橋にて晒し首となり、残りの部位はニューカッスルベリックスターリングパースに送られた[7]
1351年反逆法詳細は「1351年反逆法(英語版)」を参照エドワード3世は、その治世下において1351年に反逆法を制定した。これは大逆罪の構成要件を法律で定めたものであった。

エドワード2世の時代に起きた初代カーライル伯爵アンドリュー・ハークレイ(英語版)[8]ヒュー・ル・ディスペンサー[9]などの処刑は、反逆行為に対する刑罰がまだコモンローで明確に定義されていない時代に起こったものであった[注釈 2]。反逆罪は14歳以上のすべての臣下の君主に対する忠誠を基準とし、その忠誠が破られたかどうかを判断するのは国王と王の裁判官に委ねられていた[11]エドワード3世下の裁判官はどのような行為が反逆罪を構成するかについて、やや大袈裟な解釈を行い、「反逆を重罪と名付け、王権への侵犯として起訴する」としていたために[12]、議会から法の明確化を求める声が挙がっていた。このためにエドワード3世は1351年に反逆法(1351年反逆法)を制定した。この法はイギリスの歴史の中でも君主の統治権に対するいかなる嫌疑もない時代に制定されたものであったため、したがって主に君主を保護するために書かれたものであった[13]。新しい法律は以前に存在していた反逆罪の定義を狭め、古い封建的な犯罪を2つに分類した[14][15]。この内、一般の反逆罪は召使いが主人(または領主)を殺した場合、妻が夫を殺した場合、聖職者が(自らの上役の)高位聖職者を殺した場合を指し、この場合、男は絞首刑に、女は火炙りにされた[注釈 3][18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:137 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef