養子縁組
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その後、ヨーロッパではキリスト教の普及により、以外の者が親子関係を勝手に作るのは冒涜と考えられ、一時的に養子縁組制度は廃れるも、脱宗教化が進んだ近世以降は親のための制度としての機能を果たすようになる。つまり、老後扶養を得たり、親のない子を養いたいという博愛精神を満たすことを目的とする機能を有するようになる。

19世紀中頃にアメリカ合衆国で、恵まれない子供に家庭を与えるための養子縁組制度、すなわち子のための制度が導入された。ヨーロッパでも第一次世界大戦により孤児が増加し、子のための養子縁組に関する養子法制が導入された。日本においては、日本国憲法制定に伴い改正された家族法が子のための福祉という観点からこれを導入したが、本格的な導入は1988年昭和63年)から施行された特別養子制度(後述)を待つことになる。

養子縁組制度が求められた理由は以上のとおりであるが、法制度の建前はともかく、現実的には様々な事情により養子縁組がされる。日本の場合に多く行われるのは、離婚後の再婚に伴う連れ子の養子である。しかし、成年に達している者を養子にすることが法律上可能であることもあり[* 5]、その他、子のための制度としてはあまり機能していない。具体的には、自己の孫を養子にすることにより相続税の節約を図る節税養子[* 6]や、男子に家を継がせるためのいわゆる婿養子などが行われている。また、大正時代には新聞紙上を通じての養子仲介があったが、養女の貰い手の大半は芸妓屋であったという新聞社もあった[11]

なお、イスラム国家では、キリスト教と同様の理由により、養子という概念が一般的ではなく、チュニジアを除き、養子縁組を認めていない。
日本における養子縁組制度の歴史

日本の歴史において、最初に現れる養子に関する法律は、律令法の影響を受けて成立した大宝律令であるといわれている。ただし、中国宗族社会と違って、氏姓制度の延長上に成り立った日本社会では、中国のような厳格な制限は設けられず、一定の年下の者であれば養子縁組は比較的簡単に許された。このため、貴族社会においては、高官が優秀な孫や庶流・傍流出身者を養子に迎え、蔭位制度を活用してその出世を助けることで、結果的に一族の繁栄を図ろうとするための養子縁組が多くなった。また、時には遠い親戚や異姓出身者を養子にする者もあった[* 7]。また、平安時代までは、「養子」とより擬制的な要素の強い「猶子」との区別はあいまいであった。家の継承という要素が強くなり、養子と猶子の分離が進むのは、中世以後のことであるが、南北朝時代に入っても混用は残っていた[12]

当時の養子縁組の代表的な例として摂関家を例に取ると、仁寿年間(851年-854年間)に文徳天皇の義父として権力を振るっていた正二位右大臣藤原良房に男子がいないために、長兄で正三位参議であった長良の三男・基経を養子に迎えた。その結果、基経は養父の蔭位によって17歳の若さで蔵人になった一方で、長良の子としてそのまま育ったその同父母兄弟は、兄・国経が31歳、弟・清経は32歳になってやっと蔵人に到達したのである[* 8]。さらに、良房が摂政太政大臣に登り詰めたのに対して、長良は権中納言で死去したために、その出世の格差は広がるばかりであった。異姓の養子の例としては、姉婿である藤原頼通の養子となって後の村上源氏繁栄の基礎を築いた源師房[* 9]などがいる。

そのため、上級貴族は少しでも子孫にとって優位な出世をさせるための養子縁組を次々と組むようになっていく。極端な例としては、同じく摂関家の藤原忠実とその子・孫のケースが挙げられる。忠実の長男・忠通に男子ができなかったために、忠実は自分が寵愛していたその弟の頼長を忠通の養子にさせた。その後、忠通に実子が生まれて忠実・頼長と忠通が不仲になると、頼長の息子である師長を早く出世させるために、忠実は師長を自分の養子にして蔭位の便宜を図った[* 10]。この結果、師長からみて忠通は本来の系譜上の伯父というだけでなく、同時に祖父でもあり兄でもあるという大変複雑な事態が生じたのである。

鎌倉時代後期以後になると、家督所領の一体化が進んで嫡子相続が一般的になるにつれて、家の存続を最優先とした養子縁組が行われるようになる。特に武士では、当主に男子がいない場合、もしくは幼少の場合に、主君への忠勤を尽くせないことを理由に所領を没収されるなどの事態を避けるため、養子縁組を行うことが一般的となった。

実弟を養子とすることや、養父の実の息子(養子の義理の弟)を養子が自身の養子とすることはしばしばみられる。これらはいずれも順養子という。後者の順養子の場合、1代限りであれば間に入った養子は中継ぎ的立場になるが、代々順養子を重ねて両統迭立のような形になる例もある[* 11]。また、娘に夫を迎えて養子とする婿養子大名参勤交代などの折に、万が一の事態に備えあらかじめ届け出る仮養子[* 12]、大名・家臣が急に危篤になった場合に出される末期養子などがあった。このほか、他家の大名などを縁戚として傘下に取り込みたいが実の娘に適当な者がいない場合、一族や重臣の娘を形式的に養女とした上で娶せることも行われた(養女に夫を迎える形式の婿養子の例もあった)。

江戸幕府は当初は様々な養子規制を設けたものの、慶安の変をきっかけに末期養子の禁を緩め、享保18年(1738年)には当主か妻の縁戚であれば浪人陪臣でも養子が可能とされた。養子の規制は時代が下るにつれて緩くなり、江戸時代後期には商人などの資産家の二男以下が持参金を持って武家に養子に行って武士身分を得るという持参金養子が盛んになり、士分の取得を容易にした[* 13]。一方、商人・農民などの庶民間における養子縁組は、証文のやり取りだけで縁組も離縁も比較的容易であり、「家名の存続」よりも「家業の経営」を重視した養子縁組が行われることが多かった[* 14]。また、享保の制度変更によって女性の名義では借家を借りることができなくなったことから、女性だけの世帯が家を借りる際には、男性の名義を借りるための便宜的な養子縁組が行われるようになった[13]

明治時代以後になると「家」を社会秩序の中心に置く家制度が全ての階層に広げられた結果、養子縁組も家制度の維持という観点で行われることが多くなった。それが大きく変わるのは第二次世界大戦後日本国憲法制定に伴う民法改正以後のことである。
日本の旧民法における養子縁組

日本の旧民法において、養子縁組は、養親の家に入り、養親の嫡出子たる身分を取得することであるといえる。養子は法定血族の一種である。

養子になる者は、養親たるべき者の尊属または年長者でないこと、法定推定相続人たる身分でないことが必要である。

配偶者のある者は、配偶者と共同してのみ養子縁組をなすことができる。

養子は養子縁組の日から養親の嫡出子たる身分を取得するため、養親に養子縁組前に生まれた子女がある場合、養子は年長者であっても法律上、これらの子女より年少者として扱われる。

養子は養親の家に入るが、養親と同居する義務を負わない。

養子は養親およびその直系尊属との間に、互いに扶養の権利義務を有する。

養子は養方の血族と親族関係を持つが、このために実方の血族との親族関係を失わない。

養子は実家における家族たる身分を失い、また実親の親権を脱して、養親の親権に服する。

養子とその直系卑属またはその配偶者と、養親またはその直系尊属との間では、離縁によって親族関係が消滅したのちもなお、婚姻をすることができない。

養子縁組制度の法的理論
養子縁組の成立構成

養子縁組を成立させるための法律構成としては、契約型と決定型とに立法例が分かれる。
契約型(普通養子)

契約型は、養親になる者と養子になる者の契約により養子縁組を成立させる形態であり、スイスオーストリアなどで採用されている。


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