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島根県では、通常の粒状のもち米から作る餅に加え、粒状のもち米と米粉を一緒に蒸して搗く、練り餅との折衷のような餅を作る場所がある(松江市宍道湖畔ではふきもち(粉もち)、仁多郡横田町(現奥出雲町)では粉もち、邑智郡大和村(現美郷町)ではてんこもち、隠岐諸島島前ではふくもちと呼ぶ。てんこもちには粒状のうるち米ヨモギも加える)[12]。旧美濃郡匹見町(現益田市)のよもぎもちもまた、普段食べるものは米粉を混ぜて作る[13]。旧簸川郡斐川町(現出雲市)と隠岐郡五箇村(現隠岐の島町)など隠岐諸島で作られるふきもちは、米粉のみを蒸すか(旧斐川町)茹でて(隠岐諸島)臼や(旧斐川町)こね鉢で(隠岐諸島)搗いて作られる。隠岐諸島のふきもちは中に小豆を入れる[14]中国広東省福建省江西省などや台湾に住む客家[15]湖南省西部の漢族貴州省ラオスなどのミャオ族(モン族)などには杵と臼で作るつき餅がまだ残っている。餅つきは中国語で「打??」(ダーツーバー、d? cib?)と称し、親戚や近所の人が集まって行う行事となっている。

この他に、蒸したもち米を使うものとして、中国にはもち米を底の浅い器に敷き込み押し固め、半分潰したようにするものもあり、「糯米?」(ヌオミーガオ nuom?g?o)、「糯米?」(ヌオミーツー nuom?ci)などと呼んでいる。加工法としてはぼた餅(お萩、半殺し)に近い。いずれも「餅」という字を用いないのは、「餅」は主に小麦粉を使って円盤状に加工した食品を指すためである。

日本では家庭用の餅つき機が販売されており、羽根で叩きながら練る構造のものが多いが、練り餅よりもつき餅として認識されることが多い。大規模な工場の餅つき機では、杵と臼を備えた構造のものもある。
歴史餅つき、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版餅つきの様子(1914年)

古来から日本では、稲作信仰というものがあり、特に平安時代から朝廷に推奨され、顕著になった。これが現在でも受け継がれ、正月などのハレの日の行事には欠かせない縁起物食材となっている。このため、米などの稲系のもので作った餅が簡便で作りやすく加工しやすいことと相俟って、多様なつき餅の食文化を形成している。

考古学の分野では、間壁葭子が古墳時代後半(6世紀頃)の土器の状況からこの頃に蒸し器の製作が社会的に普及したと判断し、日常的に蒸す調理による食品の種類が増し、米を蒸す事も多くなり、特に餅を作る事も多くなったと考えている[16]。ただし、蒸し器の普及には地域差が見られ、佐原眞の『食の考古学』(1996年)によれば、6世紀時点の西日本では土器の状況から蒸す調理より煮炊き中心で、蒸す食物(餅も含む)はハレの時に用いられたとし、むしろ東日本の方が蒸す調理用土器が普及していたとしている[17]

日本における餅に関する記述として、『豊後国風土記』(8世紀前半)には次のような内容の話が語られている。富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢のとして用いて、米を粗末に扱った。的となった餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり飛び去り、その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落したとされる。この記述は、白鳥信仰と稲作信仰の密接な繋がりを示す証拠として語られ続けている。また、この記述自体が古来から日本で白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている[18]

正倉院文書には各種の餅についての記録が残り、大豆餅・小豆餅の他、胡麻油を用いた「煎餅」、飴を用いた「布留」など、この時点で多様化していることがわかる。菓子に当たる餅は「まがり」と呼ばれ、藤づるのような形の油で揚げた餅もある[19]。『延喜式』(10世紀前半成立)では、塩・醤・未醤で味付けした「索餅(さくべい)」や米粉で作る「粉熟(ふんずく)」などが記されている(前同 p.252.)。

10世紀中頃成立の『和名類聚抄』巻十六における表記としては、「毛知比=モチイ」とあり、モチイイ(長持ちする飯=イイ)から簡略されているが、まだモチの読みではない。

大鏡』(11世紀末成立)では、醍醐天皇(9世紀末から10世紀初め)の皇子[注 1]が誕生してから50日目のお祝いとして「五十日(いか)のお祝いの餅」を出されたことが記述されている。また「孫の公成に目のない、老いた公季」の条においても「誕生五十日の祝いに、赤子(公成)の口に餅を含ませた」とあり、天皇家や貴族の間では生後50日目に餅の味を覚えさせたことが記録されている。

貴族男性の結婚後は3日連続して妻の家に通い、「三日の餅(みかのもちい)」の儀式を行い[20]、婚儀にも餅が食された。

吾妻鑑』の建久4年(1193年)5月16日条に「三色餅」の記述がある。それによれば、黒・赤・白の三色の餅とあり、12世紀末において、白色以外の色餅が作られていた事が分かる。左に黒色餅、中に赤色餅、右に白色餅を置き、それぞれ食され、最後に重ねられ、上段に黒色餅、中段に赤色餅、下段に白色餅とあり、それを山の神に供したとある。形状についての記述はないが、長さ8寸(24センチ)、広さ3寸(9センチ)、厚さ1寸(3センチ)とある。鏡餅菱餅と同様に餅を重ねるという行いは鎌倉時代(中世初期)より確認できる。

民俗学的見地からは、東国では正月行事の中で餅を忌避して食べず、サトイモヤマイモを食べる習俗の方が重要な意味をもって分布していた[21]円谷幸吉遺書の書き出しに「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました」と記したが、「三日とろろ」とは、正月三日の晩に家族一同が揃ってとろろ飯を食べる風習だとされている。この東西の差異は、西が水田稲作に対し、東が焼畑農業による生産圏であり、それと結び付いた行事であるためと捉えられている[22]。したがって近畿圏と比べれば、餅が東国各地の正月行事で用いられ、普及するのは後になる。これはハレの食物としての餅が全国一様に普及するまでには、生産圏の差異から地域差があったことを示す。また餅が普及した後も「餅の四角い東と丸い西」[23]の考察にあるように、東西日本では餅の文化は異なる歴史を歩んできた。
材料

日本において伝統的な餅の製法では、原材料としてもち米をそのまま使うが、近代に入ってからは、滑らかさや細粒感を均一にし、焼いた際の膨れ具合や煮た際の溶け具合、伸び具合や粘り具合など主に味わいを向上させるため、いったんもち米を挽き、粉状(もち米粉)に加工してから蒸し煮してつく方法が生まれた。後者の方法で製造された餅は、製造過程で原料をもち米粉に加工する手間が加わることから、同品種のもち米を同量使った製品に比して高価になりやすい。そのため、もち米粉に馬鈴薯等のデンプンを加え、原価を抑えると共に口当たりの良さを維持する製造方法も考案されている。そうした製品は、マッチ箱程度の小さなつき餅1個で茶碗1杯分程度のカロリーがあることや、個包装され、保存が利き、煮る、焼く等の調理をせずに、そのままでも柔らかく食べられること、簡単に入手できることなどから、災害時の非常食としても重宝される。

もち米をついた後に、保存するための形成方法は地方によって異なる。ついた後の餅を板状にした「伸し餅」を切り分けた「切り餅」または「角餅」(かくもち、長方形)が主流の地方と、ついた餅を円盤状に丸めた「丸餅」(まるもち)が主流の地方がある。おおむね、岐阜県関ヶ原あたりを境として東日本は角餅で、西日本は丸餅であるが、岩手県一関市高知県(土佐)、鹿児島県(薩摩)などの例外もある。[24]
餅つき(餅搗き)

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出典検索?: "餅" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年5月)
水分を含ませた臼と杵もち米をせいろで蒸す蒸したもち米を臼に入れつき始める臼と杵を用いて行う餅つき電動餅つき機

搗き餅をつくることを「餅つき」(もちつき)と言う。北陸方言では「餅をかつ」と言う[25]

もち米を蒸し、の中に置きで繰り返し叩く。餅つきの様子を表す擬音は「ペッタン」や「ペッタンコ」と表現される。


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