飯島直子
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神奈川県横浜市港北区育ち[3]ハート・レイ所属。
来歴

家族は両親と姉[4]。父親は厳格な人だったと自身で述べている[5]。1983年3月に横浜市立日吉台中学校を、1986年3月に大東学園高等学校を卒業。母が美容師だった影響を姉と共に受け、子供のころから母の店の手伝いをしており、高校在学中に通信教育で美容師資格を取る準備を開始。卒業と同時にインターン生として社会に出た。しかし、実店舗であまりに何もできない自分にショックを受け、挫折しあきらめる[5]

芸能活動のきっかけは、16歳の時にアルバイト先の渋谷の喫茶店でスカウトされ、モデルクラブに入ったのが発端となった。雑誌のモデル業を少しずつ行っていたが[3]、当初は芸能界入りを目指す気持ちはなかった。美容師を目指し挫折した後で、自身の身長が周囲に比べて少し高めだったため、それを生かせる道として「カネボウの水着キャンペーングランプリで優勝する」ことを目標に設定し[6]、企業や審査員がキャンペーンガールに求めていることは何か、どういう広告戦略があるのかなどを調査し、真面目に考え始めたという[3]

1988年日本テレビ系深夜番組11PM』のカバーガールで芸能界デビュー。翌1989年には小谷ゆみ山岸真璃子らを含む全8人でガールズユニット「イレックス」を結成。

1989年オートバイ全日本ロードレースに参戦するSchick ADVANTAGE SUZUKIレースクイーン三瀬真美子とペア)に起用され、目標としていたカネボウ水着キャンペーンガールに選ばれる(カネボウでの活動は主に1990年)。1990年キリンビール宇部興産のキャンペーンガールも務めた。翌1991年にはキグナスF3000チーム(ステラインターナショナル)のレースクイーンに選ばれ、三菱カーエアコン キャンペーンガールとしても活動した。この頃、セミヌード写真集『NAOの方舟』を出版。

1991年、所属事務所を音楽制作プロダクションビーイング系列のオフィスフットワークへ移籍。テレビドラマ『マスカット・ムーン』で女優としてデビュー。年末には映画にも出演。また、日本テレビ深夜帯の新番組『DAISUKI!』の増田一穂プロデューサーに抜擢されレギュラー出演が始まると、天然の言動や当時まだ少なかった街歩きの番組スタイルで注目を集め始め、深夜帯にもかかわらず最高視聴率14.7%を記録する人気を獲得した[3]。増田Pは飯島について「彼女は自然体なのが良いと言われますが、いま人気が得られたのは何が求められているのかを常に考え、絶え間ない努力あってのものです。何もしないで視聴者にとって自然体に映るなんて人はいません。」と評している[7]

1992年10月からバラエティ番組『スーパーJOCKEY』のレギュラーになり、「熱湯コマーシャル」のサブ進行を務める。同年、当時同じ事務所「オフィスフットワークス」所属だった網浜直子とデュオユニット「W-NAO」を結成、歌手としてシングルをリリースし、7月にはアルバムとビデオもリリース。「W-NAO」ではB'zのカバーも披露。その縁もありB'zの「FUSHIDARA 100%」(LOVE PHANTOM c/w)にも参加している。1995年頃まで「W-NAO」の活動を続け、1996年にはソロ歌手としてシングル・アルバムをリリース。

1994年コカ・コーラジョージア』のCMに出演。このCMから、いわゆる「癒し系女優」として人気が上昇し、数多くのドラマに出演。1997年には『智子と知子』で田中美佐子とのダブル主演でドラマ初主演。2000年には月9ドラマバスストップ』で単独主演。『ジョージア』のCMは2000年まで6年間出演し、全24作品のロングシリーズとなった。このブレイク時期の実感について飯島は「こんなに興味を持っていただけるなんて思ってもいなかった。いやし系というフレーズも恥ずかしいような、くすぐったいのとも少し違う感覚。うれしいとかうれしくないではなく、不思議な感じでした。」と戸惑っている面もあったという[8]

この頃、飯島のファッションやメイク(特に眉のラインなど)を真似る女性が「ナオラー」と呼ばれた[9]

タレントCM起用社数ランキングでは、1997年、1999年、2000年、2001年に年間首位を獲得した[10]
人物

前述のように母は美容室を営んでいたが、姉も美容師の資格を取得している。中学入学後に流行の盛りだった「
聖子ちゃんカット」にしたくて校則で禁止されていたパーマをかけたが、そのパーマは母の手によるものである[11]

東京都生まれ、横浜市港北区育ち。自身では「日吉は私の地元です」と述べることもある[12]。小学校低学年までは東京都大田区で過ごし、多摩川河川敷にある遊具でよく遊んでいた。レギュラー出演中だった日本テレビ系「DAISUKI!」の街中ロケ中に偶然その公園の前を通った際には、「まさに乗ってた遊具とブランコそのままですよ、多摩川が洪水になった時はヘドロだらけで靴が無くなった。」と思い出を述べ、商店街では「むかし住んでたので懐かしいです」と子供時代を回想した。このほか、母の出身地が福島県白河市であり毎年行っていたことから、福島に関連するPRイベントへの参加も多く「第2の故郷」と発言している[13]。白河産の金山納豆も無くてはならない物で、「私を支えている食材」と幼少期からほぼ毎日食べている[14]

ファストフードでもラーメンでも食べたいものを食べるが、食べる時間帯には気を付けており、一日最後の食事は17:00までに終えることを心掛け、22時に就寝し翌朝8時までしっかり睡眠をとることを理想としている[15]

芸能活動をはじめることには両親とも反対しなかったが、飯島家では父の亭主関白家庭だった。飯島の高校時代に帰宅が夜23時を過ぎていると帰りが遅すぎるとして長く厳しい説教が待っており、寝ないで翌朝5時まで長時間怒られたあと不眠で翌日の学校へ行った。父も不眠で出勤した。

1985年に亡くなった女優の夏目雅子が憧れの人だった。モデル初期時代、いつかカネボウのキャンペーングランプリを取りたいと思ったのも、夏目が1977年に出演していたカネボウ「Oh! クッキーフェイス」キャンペーンのCMにあこがれていたためである[16]

1997年にTUBEヴォーカリスト前田亘輝と結婚したが、2001年に離婚[17]。2012年12月25日に会社経営者と1年半の交際を経て再婚したが[18]、2021年10月に前年離婚が成立していた事が報じられた[17]。元夫2人との間に子どもはいない。2023年の取材では「結婚する時よりも、離婚するときのほうがいろいろ考えて悩みましたよ(笑)」と当時の心境を述べている[8]

ヘバーデン結節を患っている[19]。また、2024年に出版した『今のための今まで』(世界文化社)の中で、20代後半から子宮筋腫子宮腺筋症に悩み、投薬治療をしていたと明かした[3]

自身では顔のパーツに自信が無く、鼻の形や両目の間隔などがコンプレックスだったと述べている。

出演

※役名が太字は主演作品
テレビドラマ


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