代表作は、「機動戦士ガンダム」(リュウ・ホセイ)、「ミスター味っ子」(丸井善男)、「忍たま乱太郎」(稗田八方斎)、「人造人間キカイダー」(ハカイダー)、ディズニー作品(ジャンバ博士、カール・フレドリクセン)など[11]。 東京府(現・東京都)で誕生し、小学生時代に母親の実家がある福島県磐城市(現・いわき市)に疎開し、高校卒業まで過ごす[12]。仕事の表現者は嫌いであり、小学校から柔道、野球をしていたことから、当時は演劇には興味がなかった[13]。 福島県立磐城高等学校在学中の高校1年の時に恩賜上野動物園に、象のはな子が到着していたこともあり、先輩に「俺が後ろ足をやるから、お前、前足をやりなよ」と誘われて、仮装行列の出し物で象の足の役を演じて芝居を始める[8][13]。そのときの先輩が、のちに演劇部を結成して誘われて入部する[13]。 最初の演劇では女の子役であり、母が「これ、付けたら?」と毛糸の髪の毛も見つけてきた衣裳を着ていた[13]。6つか7つセリフがあるうち、本番では2つか3つしか言えず、悔しかった[13]。それで、次の演劇の『法律の轍』では、法律家役を演じていたが、その時はしっかりセリフも言えて演じ切った[13]。その後は「芝居が面白い」と思うようになり、結局、負けず嫌いで始まった[13]。 それまでは演劇の「え」の字も無知だったが、先輩に聞いて色々な本を読むようになった[13]。台本も読み、色々な芝居をしていくうちに、高校3年生の時には先輩から引き継いで部長になった[13]。その時に木下順二の『夕鶴』で与ひょう役を演じ、福島県の演劇コンクールで2位を獲得[13]。女子高との合同公演であり、あの頃は、映画を観るにも「男は木曜日で女は金曜日」というように男女別の時代だったことから、演劇でも男が女役を演じ、男だけでしていた[13]。しかし「そんなのおかしい」と女子高の教師に許可をもらい、男女合同での演劇を実現させたという[13]。 芝居をしていくうちに、「演劇を専門で勉強したい」と思うようになり、日本大学芸術学部演劇学科[2][14]に進学[13]。当時は母は新聞記者にさせたがっており、父も他の学校に入るのを希望していた[13]。しかし飯塚は同大学は内緒で受けて、他の学校はわざと失敗といい、実力が足りなかったとも語っていた[13]。在学中に劇団を結成して、日本各地で演劇を上演する[8]。
経歴
生い立ち