飢饉における死者数・被害者数は、正確な算出が困難であり、様々な立場の人や集団から、様々な推計が出される。
日本
養和の飢饉
寛喜の飢饉
正嘉の飢饉
長禄・寛正の飢饉
江戸四大飢饉
寛永の大飢饉
享保の大飢饉
天明の大飢饉
天保の大飢饉
『続日本紀』(8世紀成立)には、大宝2年(702年)9月17日条から延暦10年(791年)5月12日条の約89年間で、飢饉に関する記述が少なくとも116回を超えている。その内、天平宝字7年(763年)の記述が「14回」(20国、同じ国を含む)、天平神護元年(765年)が「12回」(17国、同国含む)、宝亀5年(774年)が「14回」(15国、同国含む)と集中している。
また、一度に飢饉になった国の数として(4国未満は省略)、慶雲2年(705年)12月27日条で「20国」、同3年(706年)2月16日条で「7国」、天平宝字4年(760年)3月26日条で「15国」、同6年(762年)5月4日条で「畿内と5国」、天平神護元年(765年)2月15日条で「4国」、同年3月16日条で「6国」、延暦4年(785年)10月10日条で「4国」、同9年(790年)4月29日条で「14国」、同10年(791年)5月12日条で「4国」と記録されている[6]。
『続日本紀』に具体的に飢饉者の人数が記載された条として、宝亀10年(779年)8月2日条に3千余人。延暦9年(790年)8月1日条に、大宰府管轄下(九州諸国)で8万8千人余りが飢饉になったと記録される。奈良時代では、飢饉が起こるたびに、朝廷が医者と薬と物資を各国に送っていたことが記述され、疫病と飢饉が頻繁になると天皇が天に徳を示すために大赦を行った[6]。
気候変動研究では、16世紀以降に寒冷化が進み、飢饉が頻発することになる[7]。例えば、越後上杉氏の他国出兵時期と期間から口減らしの意図が考えられ、特に飢饉の続いた永禄年間に上杉謙信は関東への出兵を繰り返しており[8]、これは戦争が飢饉を起こすのではなく、飢饉が戦争を起こしていた例とされる[8]。
飢饉が元で、あるいは一因として改元された元号の例としては、寿永・寛喜・貞永・正元・宝徳・寛正がある[9]。
ことわざに「一年の兵乱は三年の飢饉に劣る」とあるように、日本では、「飢饉の害は戦争以上のものである」という考え方がある[10]。
明治時代以降も東北地方は極端な凶作に見舞われており(東北凶作)、1869年(明治2年)、1902年(明治35年)、1905年(明治38年)、1910年(明治43年)、1913年(大正2年)、1921年(大正10年)、1931年(昭和6年)と相次いだ。特に、1934年(昭和9年)の冷害は、多くの欠食児童や婦女子の人身売買が相次ぎ[11]、昭和農業恐慌と呼ばれた。 紀元前647年、晋で飢饉が起こった際、恵公が秦に食糧援助を求めたが、穆公(ぼくこう)は恵公の悪政を理由に断ろうとしたところ、家臣の「民に罪はありません」の一言を受け、援助することを決める。翌年、今度は秦で飢饉が起こったため、穆公は晋に援助を求めたが、恵公は食料を送らず、占領する好機ととらえ、攻め込み、韓原の戦いが起こる[12]。 4世紀初頭、華北地方で数年にわたって大旱(ひでり)が起こったことに加え、八王の乱による治水事業の破壊が合わさって、この時期、毎年、飢饉が生じた[13]。安住の地を求め、住民が南方の州・郡に向かい、流民の数は約30万戸にのぼり、西晋の全戸数377万の12分の1に達し、華北の総戸数60万の半ばに及ぶと推定される[14]。結果として、北方異民族の南下を招き、華北域での建国に至っている[14]。 1877年 - 1878年の干ばつによる大飢饉では、950 - 1300万人の餓死者を出した。 1960年代には、毛沢東の大躍進政策により大飢饉が発生して2000万 - 5000万人もの死者を出した。詳細は「中華人民共和国大飢饉」を参照
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