大川社長はプログラムピクチャー二本立ての低予算主義[注 1]をとっており、本作品は「金がかかりすぎる」という理由で一度東映に断られている。しかし内田の息子と阿部征司が、実際よりも安く済むように見せかけた予算表を提示して制作にこぎつけた[16]。
脚本、撮影ともに難航、岡田の後、東撮所長として赴任した辻野は、北海道、東北地方での長期に渡る地方ロケ、および「W106方式」(後述)による撮影の障害などを考慮した莫大な予算の編成、獲得に活躍したが、半年後の1964年8月本社に転勤した[17]。辻野の後は今田智憲が東撮所長に赴任と、期間中所長が三人も変わるという不安定さで、撮影所内が混乱し東撮も労使闘争を生んだ[18]。今田は当時40歳、岡田と並び将来の東映を担うと当時評価されており、大川社長は、岡田と今田を東西の両撮影所所長に据えて、東映の新たな時代を築こうとしていた[19]。
脚本
脚本の鈴木尚之は、1963年に全て岡田からの指示で『人生劇場 飛車角』(別人名義)『人生劇場 続飛車角』(相井抗名義)『武士道残酷物語』『宮本武蔵 二刀流開眼』『五番町夕霧楼』『おかしな奴』と6本の脚本を担当[7][18][20]。以降、岡田のプロデュース作品に起用され、脚本は全て岡田と話し合いを重ねて完成させた[20]。これらのハードな仕事をこなした信頼から岡田に本作の脚本に抜擢され、代表作とした[7][18][21]。鈴木はこの後、巨匠たちから脚本指名を受けるようになり、「巨匠キラー」と呼ばれるようになった[20][22]。「巨匠キラー 鈴木尚之」を作り出したのは岡田だった[20]。
キャスティング
ヒロイン・杉戸八重役には岡田が佐久間良子を推し、内田も了解した[23]。しかし、岡田が京撮に戻ると内田が左幸子に変更した[24]。「皮膚の表面でこの悲しい女を知っているのではなく、もっと深いところで理解するためには左幸子しか出来ない」と話した[25]。また岡田は三國連太郎を嫌っていたため[26]、三國の主役なら撮らせたくないと内田に伝えたが、内田が「これは三國以外にやれる人間はいないから、三國でなければ俺が降りる」と押し切った[27]。三國は小林正樹監督の『怪談』と自身のプロダクション作品『台風』と3本の掛け持ちとなった[28]。戦後日本映画に於いて偽善に満ちた悪漢を演じさせたら三國の右に出る者はいない[29]。また高倉健の起用も内田の意向という[30]。高倉は今日のイメージにないよく喋る若い刑事を一本調子で演じる[1][3]。函館署の弓坂刑事役は、最初は原作の剣道の達人として描かれた力強さをイメージし、小杉勇がキャスティングされていたが[29]、スケジュール調整が付かず[29]。キャラを人生の負け組に変更させて[29]、言葉に東北訛りが感じられるという単純な理由から山形生まれの伴淳三郎(愛称:バンジュン)がキャスティングされた[29]。バンジュンは当時から知らぬ者はいない大人気の喜劇役者ではあったが、シリアスな役どころとしては未知数であった。バンジュン自身も「どうして私なんかに?」と思ったという[31]。しかし見事に元刑事の老いを演じ切った[29]。バンジュンと高倉、樽見京一郎(三國連太郎)の妻を演じた風見章子に対する内田の今日いうパワハラ演技指導は特に酷いものだったといわれる[3][31]。高倉は「あのタヌキオヤジ」と悔しがっていたという[31]。
撮影
1965年8月クランクイン[32]。ロケは東京、下北半島[3]、北海道、舞鶴の各地で行われた。映画の撮影にあたり内田は、現代の日本人全体がおかれている"飢餓"の状況を描くためには、従来の方法でダメだと思い、流麗な画面ではなく、苦渋に充ちた画面を求め、16ミリで撮影されたモノクロフィルムを35ミリにブロー・アップさせた「W106方式」[注 2]を開発した[1][33][35]。この方式によりザラザラとした質感や[33]、現像処理で動く銅版画のような画調をもたらす「ソラリゼーション」など、当時の小型映画によく見られた実験的手法を積極的に導入して、映像はそれまでの日本映画のウェット感とは一線を画した渇いた硬質の印象をもたらした[1][8][15][33]。