この項目では、東京都北区にある公園について説明しています。北海道江別市にある公園については「飛鳥山公園 (江別市)」をご覧ください。
飛鳥山公園(あすかやまこうえん)は、東京都北区にある区立公園。東京都内の桜の名所の一つ。江戸時代享保年間に行楽地として整備され、明治6年(1873年)3月には日本最初の公園の一つに指定された。旧渋沢家飛鳥山邸が位置しており、晩香廬(ばんこうろ)と青淵文庫(せいえんぶんこ)の建物は国の重要文化財に指定されている[1]。
起源都内有数の桜の名所として知られる
江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った。1720年から翌年にかけて1270本の桜が植えられ[2]、現在もソメイヨシノを中心に約650本の桜が植えられている[3]。 「飛鳥山公園」の名の通り一帯は小高い丘になっているが、「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(25.7メートル)よりも低い山ではないかとして、2006年に測量を行ない、実際に愛宕山よりも低い25.4メートルであることを確認したとしている[4]。北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが採択されなかった。 また『鉄道唱歌』奥州・磐城篇の第2番にて「森は花見し飛鳥山」と歌われている。 公園の地下を東京メトロ南北線および首都高速中央環状線(飛鳥山トンネル)が通過している。
地形
歴史
1720年(享保5年):徳川吉宗がサクラの苗木を植えさせる[5]。
1737年(元文2年):江戸庶民に一般開放。
1873年(明治6年):太政官布達第16号により、上野公園・芝公園・浅草公園・深川公園と共に日本最初の公園に指定される[6]。
1879年(明治12年):渋沢栄一が飛鳥山公園南東側の敷地に別荘を構える。1901年から栄一が死去した1931年までは本邸として使用(実際は子息のいる三田綱町の邸宅との併用である)。
1883年(明治16年):日本鉄道により、上野駅と熊谷駅を結ぶ鉄道路線(現在の東北本線・高崎線の各一部区間)が開通したことに伴い、かわらけ(土器)投げが禁止[7]。
1927年(昭和2年):来るべき東京オリンピックの会場を想定し、運動場を整備。
1933年(昭和8年)4月23日:渋沢栄一の遺言により飛鳥山邸宅を龍門社に寄贈。
1945年(昭和20年)
3月16日:太平洋戦争下、龍門社は渋沢家邸宅を政府に寄贈。
4月13日:空襲で罹災し、旧渋沢家邸宅の大部分を焼失。
1949年(昭和24年)
3月31日:政府より龍門社に旧渋沢家邸宅跡地が返還。
7月16日:龍門社は渋沢栄一顕彰事業の基金とするため旧渋沢家邸宅跡地の3分の2を売却し飛鳥山公園が拡張される。
1970年(昭和45年):回転式展望タワー「スカイラウンジ」(通称・飛鳥山タワー)開業[4]。
1993年(平成5年):スカイラウンジ廃止[4]。