風魔小太郎
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向崎(高坂)甚内については、『見聞集』が流布したとみられる時期より前の享保17年(1732年)の『江戸砂子』に、浅草・鳥越で処刑された後に瘧(マラリア)の神とされるようになったことの紹介があり[15]馬場文耕『皿屋敷弁疑録』などによって、武田の遺臣、『番町皿屋敷』のお菊の父、辻斬りをして逐電し諸国を放浪した、などの後伝が発展していた。
三甚内詳細は「庄司甚右衛門」および「鳶沢甚内」を参照

文化13年(1816年)頃に成立した十方庵『遊歴雑記』第3編[16] は、幸坂(向崎)甚内を盗賊出身で江戸で有名になった「日本三甚内」の1人として紹介した。他の2人は、忍術と大力で日本中から人を探し集め、駿府の遊女屋を江戸へ移して新吉原を起した庄司甚内と、剣術・柔術・早業を極め、大久保忠度によって死罪を許されて、横目をしながら富沢町で古着商を営んだ鳶沢甚内とされた。

庄司甚内や鳶沢甚内は、1920年-1923年の矢田挿雲『江戸から東京へ』[17] や1928年の三田村鳶魚「慶長前後の泥坊」[18] の中で、小田原北条氏に仕えていた忍術使いとみなされるようになった。
三田村鳶魚の考証

1928年に三田村鳶魚は、雑誌『中央公論』に寄稿した、江戸初期の犯罪に関する考証もの「慶長前後の泥坊」の中で、『見聞集』の「風摩が一類らっぱの子孫ども」の逸話に触れ、「風摩」を『北条五代記』に登場する怪しげな人物として紹介し、別に『鎌倉公方(管領)九代記』に登場する、相模国足下郡の住人・風間小太郎という者もいたとして、「相模の風間の一族は斯る場合に著しい能力ある者として知られて居た」と解釈していた[19]
風摩小太郎風摩小太郎と其一党(『武蔵野から大東京へ』より 絵:池田永治

1932年10月から翌年2月にかけて『読売新聞』夕刊に連載された白石実三のオムニバス小説『武蔵野から大東京へ』には、武蔵野の妖盗・風摩小太郎が登場する。「妖盗風摩小太郎」の話の前段では、家康の関東入国前の或る日の昼、江戸の商家に、秩父猿まわしが現われ、その日の晩、この家に風摩小太郎率いる黒装束の「乱発(らっぱ)」集団が強盗に入る。話の後段では、風摩小太郎と乱発集団は武蔵野から多摩川を越えて黄瀬川へ遠征し、武田軍と戦う。一味は、すなはち『乱発(らっぱ)』と呼ばれた関東の怪盗である。関西では、これを『素抜』といってゐた。両方とも『群盗』『忍術使ひ』といふ意味であるが、ラッパ、スッパともに、日本語ではないらしい。スッパ・・・・スッパぬく・・・・SPY(スパイ)・・・・外来らしい音だ。『乱発』の大首魁を、風摩小太郎といった。—白石実三「妖盗風摩小太郎」より[20]

前島康彦は、白石の『武蔵野から大東京へ』は、同じ『読売新聞』で連載された矢田の地誌読物『江戸から東京へ』の影響を受けており、矢田が旧東京市内を対象としたのに対し、白石は専ら新区に舞台を繰り広げた、としている[21]。しかし『武蔵野から大東京へ』によると、白石は旧区の話題も取上げており、むしろ話の内容が地誌を離れて空想味を強めていたようである。前島によると、「大森貝塚」の話の中で、出土した人骨にカニバリズムの痕跡がみられるとして、それを肯定していた点などが当時一部で物議をかもした、といい[21]、白石は、何度か出てくる人肉嗜食の話題のほかにも、「人柱奇談」「家伝河童の妙薬」「雪をんな」「秩父の怪蛇」など、怪物・奇人の話題と史話を組合せて話を展開している。

『武蔵野から大東京へ』は好評を博して翌年に単行本が刊行され、1938年・1954年に再刊[22]。白石の著書の中でも売れ行きはかなり良かったという[22]

1933年4月、三田村は「慶長前後の泥坊」の「江戸叢書」収載にあたり、内容を大幅に改稿し、風摩小太郎について以下のように解釈し直した。北条氏直はその中でも多くのラッパを持ってゐて、200人ほども扶持して居った。その中の大将を風摩(ふうま)といって、これがラッパの中でも有名なものでありました。身の丈が7尺2寸もあり(・・・)随分怪しげな状貌で、変った恰好をしてゐる。これは相州足柄下郡に住んでゐた風間小太郎(かざまこたろう)といふ者なのですが、『カザマ』と云はずに『フウマ』とよませてゐる。関東でも名高いラッパでありました。(・・・)風間(ふうま)の一族は相模に蔓(はびこ)って居って、北条氏康の為に一族を率ゐて特別任務についた。—三田村鳶魚「乱波出抜」より[23]

1937年の角田喜久雄『乱波殲滅記』では、後北条氏滅亡後、熊ヶ谷宿にある「風摩の御館」を拠点に盗賊をしていた風摩小太郎とその盗賊団は、幸坂甚内の盗賊団の襲撃を受けて殲滅される[24]。『乱波殲滅記』は、1939年、1942年、1952年、1956年、1961年、1990年、1994年と、角田の作品集に度々収録されている。

風摩から風魔へ

(1940-50年代)

1948年の伊賀竜之助『猿飛佐助』では、後北条氏に仕える敵役の武将、風摩小太郎正重・小次郎高重の兄弟が、「風摩の術」を使い、武田勝頼に仕える主人公の
猿飛佐助と戦う[25]

1949年の中澤?夫の児童向け小説『富士の風魔』では、足柄山麓の村で暮らす風間一族の子で主人公の風間小源太が、山地一帯を根拠地とする同族の風魔一党に拐われた「あけみちゃん」を取り戻そうとする[26]
 小源太は、家へはいると、そっと納戸から刀をとりだして来て、裏の井戸ばたで、ごしごしと、とぎはじめた。(・・・)

「小源太や。なにをしているの、あぶないよ。」
やさしい声がした。おかあさんが、畑から、もいで来たあきなすびをかごにいれて、うしろに立っていた。
「おかあさん・・・・・・。おいらの家はぬすびとじゃないね。」
 小源太は、きゅうにかなしくなって、おかあさんの胸に、とびついてなきだした。
「おとうさまは野武士でしたが、けっしてぬすみはしませんでしたよ。」
 おかあさんは、きっぱりといった。—風間小源太とおかあさん、中澤?夫『富士の風魔』より[27]

1952年の海音寺潮五郎の『週刊読売』連載小説『風魔一族』では、後北条氏滅亡の9年後(関ヶ原の戦いの少し前)、小田原の船原で暮らしていた風魔小太郎は、石田三成から上杉氏と連携して関東を攪乱するよう依頼された息子の風魔小次郎と島左近の家来・高坂甚内に説得され、上杉討伐のため江戸へ向かった徳川家康を暗殺しようとするが、未遂に終わる。飛沢甚内・庄司甚内も江戸へ上り、庄司は吉原を開く[28]

中沢や海音寺は、「実録文学」を志して戦前から三田村鳶魚の講話を聞く「満月会」に参加し、戦後も毎月「矢立会」を開いて三田村の話を聞き、また経済面でも援助するなど、三田村と交流の深い作家だった[29][30]

後年、中沢が著した考証もの「江戸を震撼させた風魔一党」によると、中沢は、それまでの創作で用いられていた「風摩」表記は『改定史籍集覧』の『北条五代記』[31] にみえるが、『古事類苑』にある同書からの引用文[32] は「風魔」表記になっていることに気付き、「風魔という文字の方が、いかにも、乱波ものを象徴しているようだから」「風魔」表記を採用したという[33]。「風魔」表記は海音寺の作品でも用いられている。

1954年 - 1955年に『東京タイムス』などの新聞に連載された南条三郎の小説『美女決闘』では、関東に入国した徳川家康により討伐された武蔵野の群盗「乱発(らっぱ)」の首領・風魔小太郎の36人の娘達が、武蔵国と相模国の境目辺り(横浜市港北区長津田から大和市辺り[34])にある「風魔の森」に集まり、父の仇である裏切り者や家康の殺害と男子禁制を誓う[35]。『美女決闘』は1955年8月に新東宝の配給で映画化され(監督:冬島泰三[35]、関係者の間で風魔小太郎のことが「興味的に論議」されたという[34]

隠密剣士の風摩小太郎

(1960年代)

1961年,1962年,1967年
白土三平の漫画『真田剣流』『風魔』『忍者旋風』 - 風魔小太郎及び彼の率いる風魔一族を主役とする三部作。

1961年 柴田錬三郎『眠狂四郎独歩行 前編』に風魔三郎、1963年の『真田幸村』に風魔鬼太カ

1962年,1964年,1965年,1968年 早乙女貢『風魔忍法帖』『風魔忍秘抄』『風魔三国志』『忍び風魔党』

1963年 - 1964年 宣弘社製作のテレビ映画『隠密剣士』第5部・第6部で天津敏が演じた敵役の風摩小太郎(の子孫)が人気に。第5部「忍法風摩一族」で視聴率が40%を超え[36]、第5部が好評だったため第6部として続編「続忍法風摩一族」が放映された[37][38]


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