風呂
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もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている[3]

仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。風呂は元来、蒸し風呂を指す言葉と考えられており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物は、湯屋・湯殿などといって区別されていた。

平安時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れる。『枕草子』などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。

鎌倉時代には東大寺復興に尽力した重源による施浴にて鉄湯船が見られる。これは南都焼討で焼失した東大寺伽藍の再建のため巨木の用材を求めた重源が1186年頃に周防国に至り、木材伐り出しに従事する人夫の為に行われた湯施行である。重源が開山した阿弥陀寺の旧鉄湯舟残欠は渡経験のある重源が南宋で知り得たものを国内で再現したもので[4]、キッチン・バス工業会ではこれを長州風呂の元祖と紹介している[5]。現存する鉄湯船は1197年に大仏鋳造に従事していた河内鋳物師の草部是助らにより東大寺に奉納された物、1290年に同じく河内鋳物師の山河貞清による物が成相寺智恩寺にみられる。

浴槽にお湯を張り、そこに体を浸けるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。戸棚風呂と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせる風呂が登場。慶長年間の終わり頃に、すえ風呂、または水(すい)風呂と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂が登場した。入浴の始めは風呂に入る前に「かけ湯」をして、湯船に入った後に全身を洗い、風呂から上がる時にお湯を浴びて「あがり湯」で体を清める様式が広く習慣化されている。
語源

日本語の風呂の語源は、2説ある。

もともと「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ室(むろ)が転じたという説

抹茶を点てる際に使う釜の「風炉」から来たという説

英語の"bath"は、イギリスにある温泉場の街の名前、バース(Bath)が語源という俗説があるが、日本の「温泉町」という地名と同様、温泉があるから"Bath"と呼ばれるようになったのである。英語"bath"にあたる「温浴」もしくは「温めること」を意味する名詞はゲルマン古語に既にあり、さらに遡れば遠く印欧祖語に由来すると考えられる。
種類
蒸し風呂名古屋城本丸御殿の風呂屋形、裏側にある竈から蒸気を供給する蒸し風呂一遍上人の開いた蒸し湯跡の前に建つ現在の鉄輪むし湯

蒸し風呂(むしぶろ)は、蒸気により体を蒸らす風呂である。前述のように、日本では元来風呂という場合はこれを指していた。蒸気が豊富な温泉でもよく見られ、大分県別府市鉄輪温泉にある鉄輪むし湯一遍上人が施浴のために開いたものとされる。温泉で熱せられた床の上には石菖という薬草を敷きつめ高温で蒸す状態にして、テルペン(鎮痛効果がある)を成分とする芳香を放出させて、皮膚や呼吸器から体内に吸収するようにして利用する。箱型の1人用蒸し風呂は、特に箱蒸し風呂と呼ばれる。蒸気を使わない乾式のものも含めてサウナ風呂とも呼ばれるが、狭義のサウナ (: sauna bath) はフィンランド式の乾式のもののみを指す。

また人が入るためのものではないが、漆器に塗ったを乾燥させる室(むろ)である漆風呂も蒸し風呂の一種である。
岩風呂

岩風呂(いわぶろ)、もしくは石風呂(いしぶろ)は、主に日本の瀬戸内海など海岸地帯にあった蒸し風呂である[6]。天然の石窟などの密閉された岩穴の中で火を焚いて熱し、水気を与えることで蒸気浴や熱気浴をする[6]。入浴時は裸にはならず、着衣のまま茣蓙に座るか寝そべる[7]。伝統的な石風呂は高度経済成長期に入ると順次姿を消し、一部地域で残存したものについては有形民俗文化財に指定された[6]

海辺の風呂と山間地の風呂では蒸気を起こす方法に違いがある。海辺の風呂では適当な温度になったところで灰の上に海藻や海水で濡らした(むしろ)を引く。川沿いの風呂は真水で濡らした稲藁菖蒲を敷いて蒸気を起こした[8]
釜風呂

釜風呂(かまぶろ)は、主に日本列島の内陸部で広まった蒸し風呂である。特に京都八瀬の竈風呂が代表的。岩で直径2m程度のドーム型に組んだ下側に小さな入口がある構成。最初にドーム内で火を焚き熱する。加熱後に換気を行い、塩水で濡らした莚を引いて、その上に人が横たわる形で入浴をした。
五右衛門風呂

五右衛門風呂(ごえもんぶろ)は、日本の風呂の種類の1つ。安土桃山時代の盗賊石川五右衛門京都の三条河原釜茹での刑に処せられたことが、名称の由来である。

東海道中膝栗毛』には小田原の宿屋で、弥次さん喜多さんが五右衛門風呂に入る話がある。そこでは当時の五右衛門風呂の構造について「土釜のうえに直接風呂の桶を据え、底板は上に浮いている。入浴時は底板を足で底に沈めて入る。薪が少なくて済み、経済的である」と説明し、上方の形式であったとしている[注釈 1]。弥次喜多はこの風呂の入り方を知らず、底板をとりのけて入ろうとしたため釜底に触れて足を火傷し、悩んだ末に便所下駄をはいて風呂に入る。喜多さんは下駄で踏みつけたあげく、釜を壊して大恥をかく。

江戸時代の『守貞漫稿』の居風呂の条に、「京坂専用は桶に底を付せず代㆑之に平釜を用ひ土竈の上に置㆑之で薪及び古材古器機朽木之類焚㆑之故に湯屋に不㆑与㆑之也此風呂を五右衛門風呂と号ることは昔の五右衛門なる者油煮の刑俗の釜煮と云ふに行るると云伝へ理相似たるを以て也」という。

2014年11月現在、五右衛門風呂は唯一の生産メーカーである広島県大和重工鋳鉄製のものが生産されている。厳密には、全部が鉄でできているものは「長州風呂」と呼び、五右衛門風呂は縁が木桶で底のみ鉄のものを指す。厚い鋳鉄製のため、比較的高い保温力が期待できる。
かつての日本の風呂場
日本式風呂桶(五右衛門風呂、長州風呂)と洗い場。洗い場に置かれているのは、脚つきのたらいと脚つきの洗面桶。洗い場からは一段上がった風呂桶にまたいで入る。風呂桶の縁は、桶からあふれた湯が洗い場側に流れ落ちるように、一段下がったしつらえになっている。画面右側の壁には、上段に薪をくべる穴と下段に薪が燃えた後の灰を掻き出す穴が穿たれている。この例では火勢が落ちないよう、レンガを穴に挿し込んで蓋をする構造になっている。水道がない時代は外部から湯桶に水をくみ入れたり、入浴後の風呂桶の残り湯を外へ運び出したり、外部で汚れた足を洗い流せるよう、洗い場から一段下がった部分は土間のたたきになっている。
ドラム缶風呂

ドラム缶風呂(ドラムかんぶろ)は、日本の風呂の種類の1つで、空いたドラム缶を廃品利用して風呂として使用したものであり、五右衛門風呂の亜種である。石を積んで作った釜の上に置いたドラム缶に水を満たし、底部を釜の火で熱してお湯にする。入浴は五右衛門風呂と同様に、木の蓋を踏んで入るか、あるいは下駄を履いて入るかである。第二次世界大戦中には燃料の空き缶など素材が調達しやすいことから戦地でよく作られ、戦後も簡易な風呂として内風呂のない家庭も多かった昭和40年代(≒1965年 - 1975年)頃までは一般家庭でもしばしば行われていた。現在でも、ボーイスカウト子供会などの行事、あるいは宿泊施設の娯楽として野外でドラム缶風呂に入浴できるようなドラム缶加工品(底部に水抜き用水栓が付いている)が市販されている。
木桶風呂(鉄砲風呂)木桶風呂(2003年撮影)木桶風呂に浸かる様子(1911年)

日本の風呂の1つで、ヒノキを用いた大型の小判型木桶に、火を焚くため鋳物製の釜と煙突が付属する形状をしている。煙突のついた釜の形状が鉄砲に似ているため、「鉄砲風呂」と呼ばれることもある。江戸時代から存在したが、一般に普及したのは明治時代から大正時代にかけてと言われている。右の写真のものは二重構造の釜に浴槽内の水を対流循環させる、現在の追い焚き型の風呂沸かし器と同様の構造の比較的新しい型である。原型は浴槽内に沈めた金属筒に火のついた薪や炭を入れて湯を加温するものであった。


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