風吹ジュン
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注釈^ 古い文献では高岡市生まれと書かれた物がある[1]
^ 風吹は『週刊ポスト』1978年6月16日号の高見山との対談で自ら「銀座のクラブ徳大寺で働いた」と話している[11]。同店のママは俳優・徳大寺伸二号芸者に産ませた娘・徳大寺美留[3][12]。瀬里奈チェーンを経営する藤田典昭をスポンサー青山に出店した後[12]、銀座にミニクラブ『徳大寺』を出店し、ホステス全員がミニスカートという当時としては斬新なアイデアで大繁盛した[12]。同店出身者は他に五十嵐じゅん、中津川みなみ[3]安西マリア[12]高沢順子[13]、田島晴美[13]、水沢夕子[13]らでタレント養成学校の異名をとった[12]。美留ママは風吹について「京都で何をやっていたか知らなかったけど、店では目立つ子だったわね。しかしあの子が三ツ矢サイダーCMで契約金500万円だなんて、驚いたわねえ。ボーナスでハワイに連れて行ったとき、オッパイ丸出しにして走り回っていたのにね…」、ホステス仲間は「私のマンションに2ヵ月ばかり置いてやったんだけど、男をよく連れて来るわ、外泊はよくするし、フーテンみたいだったから彼女が芸能界デビューしたときは、あれあれ、と思った男が多かったんじゃない?平尾昌晃なんか、たぶん、そのクチよ」[3]、「安西マリアと同期の風吹ジュンはお店では『レオ』と呼んでたけど、歌は『あんたもうやめて!!』という感じ。でも踊りは抜群。顔は、あの通りのベビーフェイスだけど、体は丸みがあってプロポーションも良かった。踊り方もスネークぽい独特なもので、そのアンバランスが人気の的だったわね。レオがうちのお店に来るようになったのは、以前、彼女が遊びで上京したとき、私が声をかけたのよ。『よかったらお店で働かないか』って…。その時、確か髪をグリーンに染めてたわ。ブリジット・バルドーを尊敬してて、おしりを振って歩いてたわね。それからしばらくして、銀座のお店に訪ねて来たの。貧弱な男の子と駆け落ちして上京し、アパート代を借りに来たのがきっかけね。確か彼女が17歳の時だったわね。で、その男の子と別れてから、お客で来ていた平尾のマーちゃん(平尾昌晃)と同棲したの。期間は長かったわよ。でもマーちゃんの浮気が原因で別れたらしいわね(中略)レオは凄い恋愛したことがあるのよ。あの二代目社長がお相手。その二代目との間に子供までできたほどなのよ。結局、妊娠してから彼が冷たくなり、結局……したんだけど。まあレオはいろいろやってたわね。その二代目社長と恋愛中に、あの会社の老社長にかわいがられて『レオ号』というヨットと、小さなモーターボートをもらっていたもの。どういう関係なのか知らないけど…。私は彼女たちを自由にさせていなかったつもりだけど、やっていたわねえ。どういう風に合間を見つけるのか…。『アラッ』と思った時はみんな手遅れ」などと話した[13]。平尾は風吹のデビュー曲の作曲者であるが、平尾は「妹のように可愛がっていただけです」と話した[3]

出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 「インサイド 売り出し双六 女優 風吹 ジュン」『週刊サンケイ』1980年10月16日号、産業経済新聞社、33頁。 
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 「風吹ジュン独占痛切告白 今こそ語る26年の過去《母、父、兄…》 『"スキャンダル女優"を引きずる裸の私』」『週刊明星』1979年5月13日号、集英社、187?189頁。 
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「やっぱり出てきた『私は風吹ジュンと同棲していた』男の告白 恋人というより妹みたいな関係だったという京都のスナック経営者が明かす人気歌手の過去 コウジ、レオと呼び合って」『週刊現代』1974年10月10日号、講談社、154?156頁。 
^ a b 風吹 ジュン|ユニチカアンバサダー アーカイブ 1970-2022
^ a b c d e f 1970年代 モノクローム・アイドル 写真特集 風吹ジュン

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