風信帖
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^ a b この止觀は、天台宗をさす。
^ a b c 還信(かんじん)とは、使者の意味である(還人も同じ)。使者が手紙を届け返書を受け取って還るのが当時の慣習であった[4]
^ 止觀(しかん)とは、『摩訶止観』のこと。
^ 室山(しつさん)とは、室生山堅慧と推定される。
^ 量商は、商量(しょうりょう、話し合ってよく考えること)の誤りである[8]
^ 法前(ほうぜん)は、僧侶に対する敬語
^ 謹空(きんくう)とは、左に余白を空け、貴答を待つという敬意の表現。脇付
^ 枉書(おうしょ)は、「わざわざお寄せ下さった手紙」という意味になると考えられる。
^ 褁(か)は、包みの意で、「裹」の異体字
^ 遍照(へんじょう)とは、空海の法号
^ 左衛士の督(さえいしのかみ)とは、藤原冬嗣と考えられる。
^ 「香」を人名(不詳)の一部とする解釈と、御香とする解釈がある。
^ 一期とは、この場合、法要の一区切りで7日間を要する儀式のこと。
^ 拂晨(ふつしん)とは、夜明けの意。
^ 大徳(だいとく)とは、高僧の意。
^ 渇仰(かつごう)とは、のどが渇いた者が水を求めるがごとく、深く慕うこと。
^ 仁王経(にんのうきょう)とは、仏教による国家鎮護を説いた経で、最澄より借覧を請われていた経典と思われる。
^ 講師とは、国分寺にて経論を講じ、僧を化導する僧官である。
^ 沙門(しゃもん)とは、のこと。
^ 御遺告(ごゆいごう)とは、空海の生前の談話を彼の死後、弟子が文章にしたものである[29]
^ 空海は弘仁2年(811年)から3年(812年)まで乙訓寺に在住している[31]

出典^ a b c d e 「空海の風信帖」P.12
^ a b c d 木村卜堂 PP..18 - 20
^ a b 「書道辞典」(西川)P.109
^ 「空海の風信帖」P.27
^ a b c d 鈴木翠軒 PP..103 - 105
^ a b 「書道辞典」(飯島) P.185
^ 魚住和晃 PP..128-130
^ 鈴木翠軒 P.104
^ 「空海の風信帖」PP..22 - 24
^ a b c 宮坂宥勝 P.17
^ a b 「空海の風信帖」PP..26 - 27
^ a b c 人名(不詳)。
^ a b c 「空海の風信帖」PP..28 - 31
^ 村上三島 P.123
^ 「書道辞典」(西川)P.39
^ a b 森岡隆 P.28
^ a b c d e f 村上翠亭 PP..10 - 16
^ 岡本光平 P.33
^ a b 多賀宗隼 P.11
^ a b 宮坂宥勝 P.14
^ 江守 P.58
^ 鈴木翠軒 P.24
^ 鈴木翠軒 PP..108 - 109
^ 「書道辞典」(西川)P.108
^ 森 PP..212-214
^ 小松茂美 P.298
^ a b c 山口謠司 PP..74 - 75
^ a b c 宮坂宥勝 P.15
^ 司馬遼太郎 P.260
^ 司馬遼太郎 PP..250 - 265
^ 「空海の風信帖」P.24
^ 江守 P.60
^ a b c d 宮坂宥勝 P.20
^ 宮坂宥勝 P.19
^ 宮坂宥勝 P.18
^ a b 原子朗 P.44
^ 江守 P.66
^ 宮坂宥勝 P.21

参考文献

木村卜堂日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)

村上三島 「風信帖と座右銘」(西川寧編 「草書」『書道講座』第3巻 二玄社、1969年5月)

西川寧編 「書道辞典」(『書道講座』第8巻 二玄社、1969年7月)

鈴木翠軒・伊東参州 『新説和漢書道史』(日本習字普及協会、1996年11月)ISBN 978-4-8195-0145-3

「図説日本書道史」(『墨スペシャル』第12号 芸術新聞社、1992年7月)

空海の風信帖」(『』芸術新聞社、1993年9月)

宮坂宥勝 「風信帖と久隔帖」

岡本光平 「風信帖を読み解く」

原子朗 「筆蹟と文体から観る二人の人間像」

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