風信帖
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は在唐中、韓方明に学んだが、の地ですでに能書家として知られ、殊に王羲之の書風の影響を多く受けた。また顔真卿徐浩の書を習ったといわれるが、その当時の中国の素晴らしいものを迅速に消化して、これをさらに日本的な姿に発展させている。入唐前の24歳の著述『聾瞽指帰』は王羲之風ながら、帰国後の『灌頂歴名』、『風信帖』などは顔真卿の書風も看取される。

篆書隷書楷書行書草書飛白のどんな体にしてもそれぞれ他に類のない逸品を残し、『風信帖』はその完成された書風の一頂点を示すものとして名高い。[2][14][15][16]
弘法筆を択ばず

「弘法筆を択ばず」という俗言があるが、これは、「どんなでも立派に書き得るだけの力量がある」という意で、学書の時、どんな悪い筆を使ってもよいという意ではない。事実、空海の真跡を見れば良筆を使っていたことは明らかであり[5]、在唐中、製筆法も学んでいる[17]
狸毛筆奉献表

空海は帰国後、筆匠・坂名井清川に唐の技法を教えて、楷・行・草・写経用の狸毛筆(りもうひつ)4本を作らせ、これを弘仁3年(812年)6月7日、嵯峨天皇に献上した。その際、空海が書いたと伝えられる上表文が『狸毛筆奉献表』(りもうひつほうけんひょう)であり、唐製に劣らぬ出来ばえであると記している。この献筆表は醍醐寺に国宝として現存する。原文は以下のとおり。[17][18][19]

狸毛筆四管 真書一 行書一 草書一 寫書一
 右伏奉昨日進止且教筆生坂名井清川造得奉進
 空海於海西所聴見如此
 其中大小長短強柔齊尖者随星好各別不允聖愛
 自外八分小書之様蹋書臨書之式雖未見作得具足口授耳
 謹附清川奉進不宣
 謹進
    弘仁三年六月七日沙門 進 ? 『狸毛筆奉献表』

性霊集』巻4には献筆表を2つ含んでおり、この『狸毛筆奉献表』と、もう一つは同年7月、皇太弟(後の淳和天皇)に献じたときの『春宮に筆を献ずる啓』である。この中で空海は、「彫刻に利刀が必要なように、書には筆が第一に大切で、書体の違い、字形の大小ごとに筆を変える用意が肝要である。」と自らの意見を披瀝している。[19][16]

『風信帖』の3通目(『忽恵帖』)の書線の際(きわ)に筆の脇毛がたくさんあるが、このことから空海が用いた筆は禿筆であることがわかる。その禿筆を巧みに操りながら、筆の性質状態を活かしきる力量、これこそが、「弘法筆を択ばず」の本意である[13]
五筆和尚

在唐中、皇帝から唐朝の宮中の王羲之の壁書の書き直しを命じられた空海は、左右の手足と口とに筆を持って、5行を同時に書いて人々を驚かせ、五筆和尚の名を賜った逸話が残されている。この五筆和尚の図が『弘法大師伝絵巻』(白鶴美術館蔵)に見られる[20][17]。しかし、これはあくまでも後人が作った伝説であり、五筆とは、楷・行・草・隷・篆の5つの書体すべてをよくしたことによると考えられる[21]
飛白体

書体の一つである飛白(ひはく)体とは、刷毛筆を用いた書法で、かすれが多く、装飾的である。飛白の「飛」は筆勢の飛動を、「白」は点画のかすれを意味し、後漢蔡?が、人が刷毛で字を書いているのを見て考え出したという。飛白は宮城(きゅうじょう)の門の題署やの額に多く用いられ、飛白篆(篆書)・飛白草(草書)・散隷(八分)の飛白体がある。

最も古い飛白体は太宗の『晋祠銘』の碑額(「貞観廿年正月廿六日」の9文字)で、他に武則天の『昇仙太子碑』の碑額(「昇仙太子之碑」の6文字)などがある。空海の筆跡としては『七祖像賛』が残っているが、その飛白文字は天女が大空に翻るようで美しい。日本では空海の後、この書法は中絶したが、江戸時代初期ごろ、松花堂昭乗石川丈山らが盛んに書いた。

飛白は古くは飛帛といったが、飛帛とは中国の雑技として現在でも行われているもので、新体操リボン競技に近く、飛白体のイメージに一致する[22][23][24][25][26]
入唐

延暦23年(804年)5月12日、難波の港を藤原葛野麻呂遣唐大使とする4船団よりなる遣唐使船が出帆した。第1船の大使の船には、空海、橘逸勢ら一行が、第2船の遣唐副使・菅原清公の船には、最澄、義真ら一行が乗りこんだ。このとき最澄はすでに平安仏教界を代表する仏者で、短期視察を目的とする還学生(げんがくしょう)であった。空海は高位の役人になることすらできない下層の出自で、遣唐使に選出される直前まで優婆塞であったが、渡航に当たって急遽、東大寺戒壇院具足戒を受けて正式な僧侶となり、20年の長期留学を目的とする留学生(るがくしょう)に任命された。このとき、最澄は38歳、空海は7つ年下の31歳であった[20][27]。この入唐まで2人は一面識もなく、また入唐後も全く目的地を異にして行動している[28]
無名の名文家

空海の乗った船は博多から長崎の平戸へ渡り東シナ海に出る安全なコースに設定されていたが、いったん天候が悪くなるとその影響を強く被る航路でもあった。船はのなか南へ流されて、漂着したのは福州長渓県赤岸鎮(現在の福建省霞浦県赤岸村)であり、暦は8月10日になっていた。事情を説明するため大使の葛野麻呂は福州の長官に嘆願書を出したが、『御遺告[注釈 22]』によれば、大使の文章は悪文で、かえってますます密輸業者などに疑われてしまったようである。唐では文章によって相手がいかなる人物であるかを量る習慣があった。困り果てた大使は空海という無名の留学僧が名文家であることを教えられ、空海に代筆させたところ、その名文、名筆に驚いた福州の長官は即座に遣唐使船の遭難を長安に知らせたという。このときの空海の文章は『性霊集』に遺っているが、司馬遼太郎は『空海の風景』の中で、「この文章は、空海という類を絶した名文家の一代の文章のなかでも、とくにすぐれている。六朝以来の装飾の過剰な文体でありながら、論理の骨格があざやかで説得力に富む。それだけでなく、読む者の情感に訴える修辞は装飾というより肉声の音楽化のように思える。」と記している。[27][30]
帰国

最澄は任を終えて、葛野麻呂の遣唐使船で翌延暦24年(805年)6月5日、対馬に帰着した。空海は遣唐副使・高階遠成(たかしなのとおなり)の遣唐使船で、大同元年(806年)10月ごろ帰国し、大宰府に留まった。そして、唐より持ち帰った膨大な経典論書・書跡などのリストである『請来目録』を上奏文に添えて高階遠成に託した[28]

20年の留学予定が僅か2年にして帰国した規則違反の空海に対して、朝廷は大同4年(809年)まで入京を許可しなかった。空海が帰国した理由は、当時の大唐帝国はすでに末期状態にあり、安禄山の乱が起こるなど国情が不安定で、留学生たちの待遇も不十分であったこと[17]、また、空海に「胎蔵」と「金剛」という名の2つの秘教を授けた高僧・恵果の遺言(「早く郷国に帰りて以て国家に奉り、天下に流布して蒼生の福を増せ」)に従ったことなどが考えられる[27]。なお、このときに橘逸勢も帰国している。長安での空海は恵果に仏教を学び修行に励んだが、師からの信頼が極めてあつく、弟子1000人がいる中で恵果は空海に秘法のすべてを伝授し、その4ヶ月後に他界した[17]
高雄山寺入住

大同4年(809年)8月24日付の書状で、最澄は空海に『大日経略摂念誦随行法』の借覧を申し出ている。2人はこれ以前から交友があり、密典の貸借が行われていた。最澄はこのような空海からの借用の恩恵に報いるため、空海を和気真綱に紹介して高雄山寺の入住を斡旋した[28]。このような経過で入京し高雄山寺(または乙訓寺[注釈 23])にいた空海が、比叡山寺(延暦寺)の最澄に宛てた書状が『風信帖』である[17]


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