風にそよぐ葦
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岡田は1947年に東横映画に入社し、京都撮影所に映画製作の進行係として所属していたが[11]、本作は岡田が京都撮影所のスタッフを連れて、当時はまだ吉本興業などが所有していた東京練馬大泉の(株)太泉映画スタジオ(太泉映画、現在の東映東京撮影所)を[12]2?3ヵ月借りて作った映画で[10][13]、東横映画が東映東京撮影所で製作した第一作[14]

東横映画は自社所有の撮影所も配給網も持っておらず[15]五島慶太大映の大株主になって京都撮影所を大映から月額10万円で借りていた[15]。また現在の東映東京撮影所である当時の太泉映画スタジオは、東宝日活東急吉本興業などと共同出資していたため[12]、撮影所の1日のレンタル料は20万円と高額であった[10][13]。東横映画は配給を大映に委託したが[15][16]、大映は儲けをほとんど自社で押さえてしまい[15]、東横映画には充分な金が入らず、製作に必要な経費も足りなくなった[15]。困った東横映画の社長・黒川渉三株式永田雅一にぽつぽつ手離し[15]、大映は大映画会社に変貌した[15]。五島は当時公職追放の身で、東急その他全ての事業に直接関与することが出来なかった[15]

『きけ、わだつみの声』が爆発的ヒットを記録しながら、大映の配給で東横に儲けが全然入らなかったことから[17][18]、五島は大映とは縁を切り[13]、嫌々ながら、東宝小林一三と話をつけ、東宝へ月一本の配給を行うようになった[14]。本作はその第一作でもあり[14]日劇で封切られた[10][14]。東横映画は資金涸渇により黒川渉三社長らが、街の高利貸しから金を借り[19]負債は当時の金額で11億円(ざるそば一杯25円の時代[20]、1989年頃の貨幣価値では数百億円以上)に上っていた[14][20][21][22]。親会社の東急自体にも重大な影響を及ぼしていた[19]。当時の映画事業に融資をするような銀行はなく[13][23]、東横映画は沈没寸前[24]、「パラマウント映画」を捩り、「(金を)ハラワント映画」などとからかわれた[20][25][26]。東宝と縁が出来たことで、岡田たちは東宝から「来ないか」と誘われ[14]、岡田と同じマキノ光雄の子分・坪井与が「お前どうする?」と相談に来たが「あんたの好きなようにせい」と答えた[14]。岡田は京都撮影所の親分でもあり[14]、東横映画が潰れるのを見てみたいという気持ちがあり、引き抜きを断った[14]
キャスティング

木暮実千代の大ファンだった岡田は、木暮の荻窪の自宅に日参し出演交渉した[8]。当時の木暮は人気の急上昇でギャラが高額になり、各社の掛け持ち出演がマスコミ映画評論家から批判されていた[8]。1973年9月、木暮の俳優生活35周年を記念した明治座特別記念公演の特別プログラムの巻頭に岡田は、「思えばあなたとのお付き合いは古く、最初にお会いしたのは、昭和25年、私が『風にそよぐ葦』の担当プロデューサーとして、荻窪のお宅に出演依頼に日参した時だったと思います。スケジュールが重なる中での無理な願いを聞き入れていただいた時の喜び、そして徹夜徹夜の強行撮影(中略)今はもう23年も前になりましたが、ついこの間のような気がして感無量です」と祝いの言葉を寄せた[8]。木暮も岡田に好感を持ち[4]、1960年代以降は東映出演が増えた[8]。木暮は1951年の前半5ヵ月間に『自由学校』(大映)『孔雀の園』(新東宝)『熱砂の白蘭』(東宝)に、本作前・後編の四本に出演した[8]

薄田研二をやっつける情報部の将校役は、岡田が木村功を口説いた[13][26]。「半日で終わるから」などと何度も出演を頼んだが、いくら頼んでも「出る」と言ってくれず[26]、仕方なく岡田が俳優として映画初出演した[13][26]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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