顕微鏡の使用に基づく有機組織の顕微鏡解剖学に関する最初の詳細な記述は、ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナの『L'occhio della mosca(ハエの目)』(1644年)に登場する[16]。
1660年代から1670年代にかけて、イタリア、オランダ、イギリスの博物学者たちが、生物学の研究で顕微鏡を使い始めるまで、顕微鏡はおおむね目新しいものであった。一部の生物学史家が組織学の父と呼ぶ、イタリアの科学者マルチェロ・マルピーギは、肺の研究から生物学的構造の分析を始めた。1665年に出版されたロバート・フックの『Micrographia(英語版)(顕微鏡図譜)』は、その印象的な図版が大きな影響を引き起こした。フックは、ガラス糸の端を溶かした小さなガラス球から小さなレンズを作った[15]。
アントニ・ファン・レーウェンフックは、単純な単レンズ顕微鏡で300倍もの倍率を達成し、大きな貢献をもたらした。彼は、リベットで留めた2枚の金属板の穴の間に非常に小さなガラス球レンズ(英語版)を挟み、ネジで調整可能な針を取り付けて標本を固定した[17]。その後、ファン・レーウェンフックは赤血球(ヤン・スワンメルダムにちなむ)と精子を再発見し、生物の超微細構造を観察するための顕微鏡の普及に貢献した[16]。1676年10月9日、ファン・レーウェンフックは微生物の発見を報告した[18]。
複合光学顕微鏡の性能は、試料に光を集める集光レンズ系と、試料からの光をとらえて像を形成する対物レンズの品質、そして正しい使い方に依って決まる[5]。この原理が19世紀後半から20世紀初頭にかけて十分に理解され、開発され、また光源として電球が利用できるようになるまで、初期の器具には限界があった。1893年、アウグスト・ケーラー(英語版)は、光学顕微鏡の理論的な分解能の限界を達成するための、中心的で重要な試料照明の原理であるケーラー照明を考案した。この試料照明法は均一な照明を実現し、初期の試料照明技術によって制約を受けていたコントラストと分解能の課題を克服した。試料照明のさらなる発展は、1953年のフリッツ・ゼルニケによる位相差の発見と、1955年のジョルジュ・ノマルスキー(英語版)による微分干渉コントラスト照明によるものである。どちらも、染色されていない透明な試料の画像化を可能にした。
電子顕微鏡「電子顕微鏡」も参照エルンスト・ルスカによって製作された電子顕微鏡 (1933年)