顕微鏡
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いくつかの説がオランダの眼鏡工房を中心に展開され、1590年にサハリアス・ヤンセン(彼の息子による主張)またはサハリアスの父ハンス・マルテンス、あるいはその両方によって発明されたという主張や[6][7]、隣人でライバルの眼鏡職人であったハンス・リッペルハイ(1608年に最初の望遠鏡で特許を申請)によって発明されたという主張のほか[8]、1619年にロンドンで改良版を持っていたと記されている移住者コルネリウス・ドレベルによって発明されたという主張などもある[9][10]ガリレオ・ガリレイは(複式顕微鏡の発明者とされることもある)、1610年以降、望遠鏡の焦点を近づけて小さな物体を観察できることを発見し、1624年にローマで展示されたドレベルの複式顕微鏡を見た後、彼自身の改良版を作成したようである[11][12][13]ジョバンニ・ファベールは、ガリレオが1625年にアッカデーミア・デイ・リンチェイに提出した複式顕微鏡を「microscope(顕微鏡)」と命名した(ガリレオはこれを「occhiolino(小さな目)」と呼んでいた)[14]ルネ・デカルトは、1637年の著作「Dioptrique(英語版)」で、対象物に向かってへこんだ凹面鏡をレンズと組み合わせ、対象物をその鏡の焦点に取り付けて照明するような顕微鏡について述べている[15]
近代的な光学顕微鏡の進歩カール・ツァイスの双眼複式顕微鏡 (1914年)

顕微鏡の使用に基づく有機組織の顕微鏡解剖学に関する最初の詳細な記述は、ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナの『L'occhio della mosca(ハエの目)』(1644年)に登場する[16]

1660年代から1670年代にかけて、イタリア、オランダ、イギリスの博物学者たちが、生物学の研究で顕微鏡を使い始めるまで、顕微鏡はおおむね目新しいものであった。一部の生物学史家が組織学の父と呼ぶ、イタリアの科学者マルチェロ・マルピーギは、肺の研究から生物学的構造の分析を始めた。1665年に出版されたロバート・フックの『Micrographia(英語版)(顕微鏡図譜)』は、その印象的な図版が大きな影響を引き起こした。フックは、ガラス糸の端を溶かした小さなガラス球から小さなレンズを作った[15]

アントニ・ファン・レーウェンフックは、単純な単レンズ顕微鏡で300倍もの倍率を達成し、大きな貢献をもたらした。彼は、リベットで留めた2枚の金属板の穴の間に非常に小さなガラス球レンズ(英語版)を挟み、ネジで調整可能な針を取り付けて標本を固定した[17]。その後、ファン・レーウェンフックは赤血球ヤン・スワンメルダムにちなむ)と精子を再発見し、生物の超微細構造を観察するための顕微鏡の普及に貢献した[16]。1676年10月9日、ファン・レーウェンフックは微生物の発見を報告した[18]

複合光学顕微鏡の性能は、試料に光を集める集光レンズ系と、試料からの光をとらえて像を形成する対物レンズの品質、そして正しい使い方に依って決まる[5]。この原理が19世紀後半から20世紀初頭にかけて十分に理解され、開発され、また光源として電球が利用できるようになるまで、初期の器具には限界があった。1893年、アウグスト・ケーラー(英語版)は、光学顕微鏡の理論的な分解能の限界を達成するための、中心的で重要な試料照明の原理であるケーラー照明を考案した。この試料照明法は均一な照明を実現し、初期の試料照明技術によって制約を受けていたコントラストと分解能の課題を克服した。試料照明のさらなる発展は、1953年のフリッツ・ゼルニケによる位相差の発見と、1955年のジョルジュ・ノマルスキー(英語版)による微分干渉コントラスト照明によるものである。どちらも、染色されていない透明な試料の画像化を可能にした。
電子顕微鏡「電子顕微鏡」も参照エルンスト・ルスカによって製作された電子顕微鏡 (1933年)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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