顕如
[Wikipedia|▼Menu]
無位無官かつ呼び名を持たないため、寺号・坊号を呼び名とする。
信長包囲網顕如画像幅 ⇒[1] 石川県立歴史博物館所蔵 18世紀

しかし、本願寺は武家封建関係の外でこのような権力を握っていたことから、延暦寺町衆などと同様に、永禄11年(1568年)に将軍・足利義昭を奉じて上洛し、義昭を通じて影響力を強めていた織田信長による圧迫を受けるようになり、顕如は信長と敵対する。

元亀元年(1570年)に本願寺と織田氏は交戦状態に入った(野田城・福島城の戦い)。一連の抗争は石山合戦と呼ばれる。その後、元亀年間に将軍・義昭と信長は反目し、義昭は甲斐国の武田氏をはじめ越前国の朝倉氏、近江国の浅井氏ら反織田勢力とともに信長包囲網を構築した。本願寺も信長包囲網の一角を担い、顕如は自ら石山本願寺に篭城し、雑賀衆などの友好を結ぶ土豪勢力と協力する、地方の門徒組織を動員して長島一向一揆などの一向一揆を起こし信長に対抗した。

しかし、元亀4年(1573年)4月には武田信玄の死を契機に包囲網が破綻。朝倉・浅井・足利などの同盟勢力は次々と織田氏によって滅ぼされ、木津川口の戦いなどで抵抗を続けた本願寺も最終的には抗戦継続を諦め、朝廷を和平の仲介役として天正8年(1580年)に信長と和睦。顕如自身は本願寺を退去すると紀伊国鷺森御坊に移り、ここを新たな本山とした。一方で嫡男の教如は本願寺に籠って抵抗を続けたが結局は退去を余儀なくされ、教如の退出後に本願寺は失火によって焼失した。
晩年

本能寺の変後信長に代わって畿内の実権を握った羽柴秀吉と早急に好を通じた。秀吉は本願寺とその門徒が持つ経済力や技術力を利用して、大坂本願寺とその寺内町をもとにして大坂城大坂城下町を築いて整備した。

天正11年(1583年)閏正月22日に顕如は鷺森御坊を出発すると、24日から有馬温泉で湯治を行った。2月10日に有馬温泉を出立するとそのまま名所めぐりに入り、11日に京都に入って清水寺北野天満宮石清水八幡宮などを参詣し18日に京都を出る。19日に宇治を見物して奈良に到着するや東大寺大仏に、次いで翌20日には春日大社を参詣して若宮で大神楽を楽しんでいる。21日には大神神社長谷寺を経て今井町に、22日には吉野で花見を行った後、飯貝本善寺に宿を取っている。23日には下市願行寺に宿泊し、24日にに着くと、25日に鷺森御坊に到着している。その間、顕如は参拝する寺社に寄進を行っている。清水寺に1000疋、北野天満宮に1000疋、石清水八幡宮に1000疋、東大寺の大仏に300疋、春日大社に2000疋、大神神社に200疋、長谷寺に300疋という具合であった[5]

7月には和泉国貝塚道場を新たな本山とし、貝塚願泉寺と名を改めている。

天正13年(1585年)8月には秀吉より大坂城の郊外である天満の地に所領を与えられ、天満本願寺を建立して新たな本山としている。ここはルイス・フロイスによると「秀吉の宮殿の前方にある孤立した低地」で、さらに「住居に壁をめぐらしたり堀を作る」ことを禁じられており[6]、本願寺は豊臣政権の強い統制下に置かれていたことがわかる。

この年顕如は大僧正に任じられた。翌天正14年(1586年)には准三宮の宣下を受ける。しかし秀吉から九州平定に同行するよう命じられ、暫時下関滞在を余儀なくされた[7]

天正17年(1589年)には一騒動あった。聚楽第の壁に政道批判の落書が書かれ、その容疑者が本願寺寺内町に逃げ込んだという情報と、秀吉から追われていた斯波義銀[注釈 5]細川昭元尾藤知宣らの浪人がやはり天満に潜伏しているという情報を相次いで入手した豊臣政権は、同年3月に石田三成に命じて寺内町の取締強化とこれらの者を匿ったと断定された2町の破壊を骨子とする厳しい寺内成敗を行わせたのである。肝心の斯波義銀らはついに発見されなかったものの、彼らを匿った罪で天満の町人63名が京都六条河原で磔となったほか、顕如も2月29日に秀吉から浪人の逃亡を見逃したことを理由に叱責を蒙り(『言経卿記』)、3月8日にはさらに容疑者隠匿に関与したとして蓮如の孫にあたる願得寺顕悟[注釈 6]が自害を命じられた。こうしてかつて本願寺が持っていた強大な領主権力は顕如一代のもとで完全に失われていったのである[9]

天正19年(1591年)には秀吉から京都七条堀川の地に寺地を与えられたことで久しぶりに京都に本願寺が作られることになり、この地での本願寺教団の再興を期して早速本願寺(現・西本願寺)が建立された。翌天正20年(1592年)11月24日、50歳にて示寂[1]

顕如が没すると、大坂本願寺退去時に信長への対応をめぐって和睦派の顕如と意見を異にした強硬派の長男教如が跡を継いだが、顕如の正室で教如の母である如春尼や教如に反感を持っている顕如の側近衆などが秀吉に働きかけた結果、教如に替えて三男の准如が12世宗主に立てられることになった。教団内部での対立が進行する中、教如は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦い後に家康により本願寺の東に新たな寺地が寄進されたことを受けて、教如と彼を支持する勢力は慶長7年(1602年)に独立して東本願寺を設立した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef