領海
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基本的な海域の区分。領海の幅は基線から12海里まで。

領海(りょうかい、英語: territorial sea、フランス語: eaux territoriales)とは、基線から最大12海里(約22.2キロメートル)までの範囲で国家が設定した帯状の水域であり、沿岸国の主権が及ぶ水域である(右図参照)[1][2][3]。沿岸海(えんがんかい)といわれることもある[1]

領海、領海の上空、領海の海底とその地下には沿岸国の主権が及ぶ[1][2][4]領土領空とともに国家領域のひとつで[5]、また領海に内水群島水域をあわせて沿岸国の主権がおよぶ3種の海域のことを領水(: territorial water)と呼ぶ[6]
沿革


グロティウスの肖像画セルデンの肖像画

万民共有物の時代

ローマ法は、は万民共有物であるとして、何人も海を所有することができないとした[7]中世に入りヨーロッパでは海の秩序確保のために沿岸国に警察権裁判権を認めることもあったが、この時代には海そのものに対する国家領有権はローマ法に基づき否定された[8]。1493年、スペインポルトガルトルデシリャス条約を締結し、大西洋インド洋への領有権を主張した[7][8]。これに対し例えばエリザベス1世は海洋の自由を主張するなど、スペイン・ポルトガルの主張に対してイギリスオランダは反発し、1588年にはスペインの無敵艦隊を撃破して両国の領有の主張を退けた[7]。17世紀初めになるとイギリスとオランダは東インド会社を設立して広く海外交易をおこなった[7]
海洋論争

17世紀前半には「海洋論争」といわれる学術的対立が繰り広げられた[9][10]。例えばグロティウスは、母国オランダを擁護する観点からオランダの通商を排除しようとするポルトガルに対抗し、『自由海論』(1609年)を刊行して何人も海を所有しえないと主張した[7][10][11]。グロティウスの主張によれば、海はその自然的性質から境界を確定することが困難であるため所有や領有の対象とはなりえず、万民による利用のために開放されるべきという[10]。この主張は後の海洋の自由の原則形成に大きな影響を与えたが、当時は多く論者がグロティウスの主張に異を唱えた[7]。その中でも代表的であったのがセルデンの『閉鎖海論』(1635年)である[9][12]。セルデンは同書の中で、歴史的な慣行に照らせば海軍力による支配や国家権力の行使などによって海洋の物理的支配は可能であると主張し、グロティウスの挙げた論拠を否定した[13]。18世紀にはいり、重商主義や通商自由主義が高まっていくと「海洋論争」は「狭い領海」と「広い公海」の二元構造を認める方向に落ち着いていった[9][13]。つまり、中央集権化の進む国家の秩序維持に必要な「狭い領海」と、通商の自由や海外植民地獲得などをもくろむ海洋先進国の自由競争が容認される「広い公海」の二元構造である[9][13]。こうした考え方は当時の国際社会で受け入れられ、国際慣習法として確立した[13]
慣習法による領海

「狭い領海」と「広い公海」という海洋の二元構造確立以降も、領海の性質と範囲については未確定のままであった[14]。領海の外側においては公海の制度が適用されるにしても、領海と公海の境界線をどこに置くのかが定まらなかったのである[14]。19世紀には沿岸から3海里までを自国の領海とする国が多くなったものの、4海里、6海里、12海里、沿岸から発射したキャノン砲の着弾距離など、各国の主張は食い違った[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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